マイティール城の一角に日当たりのよいサロンがある。二階にあるここからは眼下に生い茂る緑が絨毯のように広がっているのが良く見える。雲ひとつない秋空はどこまでも果てしなく広がる青の天蓋。
白枠の硝子戸からは秋にしては柔らかな日差しが差し込み室内を温かく照らしている。
相変わらずここは手入れが行き届いていて居心地の良い場所だと、サロンに通された彼は侍女に進められた紅茶を軽く口に運びながら、イルアーナの第二王女を待つ。
暫くすると扉を叩く音がし、二人の少女が彼の方へ歩いていく。
一人は侍女でもう一人は豊かな紫銀の髪を高く結い上げた少女だ。
一定の距離まで近づくと紫銀の長髪の少女が貴族的な所作と共に挨拶をする。
「私はイルアーナ第二王女ティナローザと申す。貴殿が私にダンスを教えてくれるのだな?」
姫の挨拶と問い掛けに丁寧に返しつつ彼も自己紹介をする。
「ティナローザ王女。お目にかかれて光栄でございます。王女のご活躍は私も聞き及んでおります。この度は私めにダンスの指南を請いたいとのこと、有難くお受け致します。私は、ディルチェと申します。どうぞよしなに」
流石、社交界で注目の的になるだけあってその優雅な立ち居振る舞いは溜息ものだ。普通の者が同じ動作をしたら気障に見える物でも彼だと少しも嫌味がない。
彼――ディルチェは苔緑の瞳を向けにっこりと微笑む。
思わずつられてにっこりと微笑む侍女と全く変わらない姫が滑稽に見えてしまう。
「こちらこそ宜しく頼む」
言い終わらないうちに体のバランスを崩して姫の上体がぐらつく。それを素早く察知したディルチェは姫の体を支えてやる。
「済まぬな、ハイヒールは慣れていないのだ」
何しろ魔狩人などやっているから踵の高い靴など履いていられない。
ディルチェはゆっくり手を離しながら姫に問うた。
「姫君はダンスのご経験はあまり無いご様子ですね?」
「そうだな。もう五、六年はステップを踏んでいないな……もう手遅れか?」
今更ながら不安になり姫は眼前の青年に尋ねてみる。
「いいえ。頑張り次第では人並みより少しは巧く踊る事もできましょう」
青年はこういう時敢えて本当の事を伝えるようにしている。踊りが小手先で通じるものではないと理解しているからだ。相手が王侯貴族だからとて下手に機嫌を取るような真似はしない。それが彼なりの礼儀であり優しさだからだ。
「うむ。頑張りがいがあるぞ」
姫は早速体勢を立て直しすっとその場に立つ。
それにしても、とディルチェは思う。
これまではこの王女の事は遠くから魔狩人装束の時しか見た事が無かったが、今目の前に練習用とはいえドレスを身に纏い佇む彼女は何と高貴に映る事か。
やはりこの人は王女足るべくして生まれてきたのだと思う。
「それでは、試しに少し踊ってみましょうか」
ディルチェが姫に手を差し出すと姫は苦虫を噛み潰したような表情になり、一向に自らの手を重ねようとしない。
「姫君?」
訝しげにディルチェが姫の様子を伺うと、姫は渋々告げた。
「私は、何をどう間違ったのか、男性用のステップしか踏めないのだ……」
申し訳なさそうな恥ずかしそうな表情でそう言って姫は思わず下を向く。
何たる汚点!
一国の王女がダンスもまともに踊れないとは。
こんな事なら剣の鍛錬ばかりせず一つでもまともに覚えておくんだった。
「それはまた……ふ」
思わず笑みが毀れかけ、青年は失礼と咳払いをし姫の手を取る。
「構いません。姫君は普通に踊っていただければ合わせます」
行きますよ、と促され姫は男性用のステップで踊り始めると、控えていた侍女のリアフが音の小箱を開いてダンスで最も良く流れる曲『小鳥のワルツ』を流す。
「踏んだら済まぬ……」
相手の足を踏む事が解っているから姫は先に謝りつつ踊り続ける。
罪悪感を抱きながら踊り続けている姫だったが、ふと気付く。
いつもなら数歩動いただけで相手の足を踏んでいる筈なのに、一度も立ち止まらず踊り続けている。
それにダンスから遠ざかっていたとはいえ、ディルチェのリードが巧いのかとてもスムーズに体が動く。なるほど、ダンスの実力は伊達ではないのだ、と一人納得しつつ姫は相手を見上げる。
「女性用のステップも当たり前のように踊れるのだな」
「そうですね。中々披露する機会は無いのですが」
相手の笑い混じりの声に姫は少し渋い顔になる。
「それは皮肉か」
などと言っている内にあっという間に一曲は終わっていた。
姫が嫌だと思うまもなくあっという間に。
「ダンスって意外と楽しいものなのだな。苦手だからと遠慮していたが食わず嫌いだったのかもしれぬ」
「そのように仰って頂けるとは、私も嬉しいです。今、一曲踊って頂いた訳ですが、姫君は中々筋がよろしいかと。後は正しいステップを身につければ大した問題もないでしょう」
今は敢えて口にしないが、意外や意外。この姫のダンスの才はこのまま埋もれさせるにはあまりにも惜しいものだ、とディルチェは思う。
もともと体を鍛えているからか、無駄な動きや癖が無く姿勢が綺麗な為見栄えも申し分ない。そして何より驚いたのは、今まで数多くの人々とダンスを踊ってきた彼からみても姫は初めて踊る相手とは思えない程リードしやすかった。
本格的にダンスを学べばその才能は一気に花開く事は間違いない。
一国の王女でなければ弟子に誘っていただろうとディルチェは思った。
「いたたた……」
履きなれないヒールで踊った代償に、姫の踵には靴づれが出来ていた。
姫は即座にヒールを脱ぎ裸足になる。
「! 申し訳ありません。私とした事がそこまで気が回らず……」
改めてダンスに気を取られすぎていた自分に気付き、ディルチェは申し訳ない気持ちになる。
紳士たるもの常に相手の事を考えねば。
「良い。というか、何故貴殿が謝るのだ? 慣れない靴を初めから履いてきたのは私だぞ?」
「そ、それはそうですが」
思いもよらない言葉にディルチェは珍しくどもってしまう。
これが普通の良家の令嬢であれば何故気付かなかったのかと非難される事も珍しくなかった。
にも係わらず、側に控えている侍女さえも事の成り行きを見守っているだけだ。
「何事も楽して美味しい思いが出来るとは思っておらぬ。私を見くびってもらっては困るな。今後も遠慮せず教えてくれ」
曇りの無い真っ直ぐな菫色の瞳には強い光が宿っている。向けられた笑みには信頼の気持ちが込められていた。
「有難き幸せ……」
知らず、そう口にしていたディルチェであった。
慣れない靴を履いて出来た靴づれは痛いはずなのに、この姫は微塵もそのような気配を感じさせる事も無く踊りきった。
自分が普段接する女性達は、このような事があればここぞとばかりに媚を売ったりして近づいてくる。すぐに弱音を吐き構ってもらいたがる。
それに比べてどうだろうう。この姫は自分が王族であることも少しも鼻にかけず、物事に一生懸命取り組む。
「どうかしたか?」
自分でも気付かぬうちに姫の顔を凝視していたらしいディルチェは「いえ」と居ずまいを正す。
「今日はまだ一回目ですし、この辺にしておきましょう。明日、足が平気そうでしたら早速ダンスを練習していきましょうか」
「解った。有名なもの二つくらいは頑張って覚えねばな」
「そうですね。姫君ならきっと精霊の如く舞う様に踊るのでしょうね」
「え?」
幾らなんでもそれは買かぶりと言うものではないか、と思ったが敢えて突っ込むのはやめた。
ディルチェがとても楽しそうに微笑んでいたからに他ならなかった。
「明日が楽しみです。頑張りましょうね、姫君」
「無論だ」
良い師に出会えたと姫は思った。
社交界で名を馳せていると聞いていたからどんな優男がやってくるのだろうと思っていたが、この者は礼儀正しいし人柄も良い。
彼が教えてくれるなら私も根を上げずに済みそうだ。
フォレストを見返すためにも頑張らなくては!
気の合う師との会話は思いのほか弾み、いつの間にか昼を過ぎ彼がサロンを去る頃には夕方になっていた。
ディルチェが金の髪を揺らし白亜の壁に囲まれた廊下を歩いていると、向いからすらりとした長身の青年が歩いてくる。
見るからに常人とは違う雰囲気を纏っているが消して近寄りがたいものではない。彼とは対照的な銀色の髪に理知的な青い瞳の綺麗な青年だ。その全身は青を貴重にした服で包まれている。
視線が合うと彼は柔らかな笑みを向ける。
「姫のダンスの調子は如何でしたか?」
人当たりの良い声で彼は問いかける。
「え……ああ、はい。この一週間で問題なく踊れるようになるかと」
教えても居ない事を初対面のこの青年が何故知っているのか、口にするのか不思議に思いつつもディルチェは答えた。
「そうですか。一生懸命でしょう、私の姫は」
私の姫?
これほど姫君の事を気軽に言うこの青年は一体!? 何者なのだろうと彼が思ったのを読んだかのように。
「ああ、ご挨拶が遅れました。私は姫の守り手をしているフォレストと申します」
彼はあまりにも自然にそう答え、軽く一礼する。
その様子にディルチェもつられる様に簡単な自己紹介をした。
「お疲れ様です」
そう言い残してフォレストは歩みを進める。彼の姿が廊下の曲がり角に差し掛かり、その姿が見えなくなった所で漸く彼は気付く。
「『茨の姫には、蒼の守護者』……その守護者は蒼の賢者。あの方がそうなのか」
それにしても随分若いとディルチェは思う。彼はもうすこし年のいった魔道士を想像していたからだ。口にした一節は、先日の舞踏会で吟遊詩人が歌っていたものだ。
蒼の賢者のこの国への功績はあまりにも大きい。にもかかわらず、彼は必要最小限にしか人前に姿を現さなかった。故にその渾名だけが一人歩きし、今のような格差を生じているのだ。
そう、蒼の賢者という知名度だけはあるが、フォレスト本人を直接知っているものはさほど多くはないのだ。彼が直接現地で指揮を執った村や町以外の人々は彼を見た事がなかったりする。
王都から離れれば離れるほどその格差は激しいだろう。
「なるほど……」
ディルチェは社交界に身を置いて長い。それはそれだけ多くの人を見てきたという事。
一癖二癖ある者や、王族、各界で名を馳せた者達は明らかに常人と纏う雰囲気が違う為ひと目で解る位には人を見る目が備わっている。
そしてフォレストも彼らと同類だと解って口から出た言葉だった。
フォレストはそのままサロンへと足を運ぶ。
姫がダンス指南を受けるとは聞いていたがまさか夕方迄とは思わなかった。
少し面白くない気がしつつもフォレストは扉を軽く叩き、相手の承諾を得ると室内へ入る。
「フォレスト」
ダンスが楽しかったのか、姫はご機嫌な様子で彼の名を呼んだ。
「おや、何故裸足で居るのです?」
きちんと床の上に揃えて置かれているハイヒールを目にし、フォレストは問う。
「慣れない事をしたから、靴づれが出来た」
「で、そのまま踊りきったと」
やれやれと苦笑を浮かべながらフォレストは姫の足元に跪き、その具合を見る。
「全くあなたときたら」
この綺麗な肌に傷をつけるのは私だけで良い。
フォレストはすっと右手を姫の踵の少し上あたりに翳し癒しの力を送った。
「あ、ありがとう」
瞬時に塞がった傷口を見つめながら姫は感謝の意を述べる。
「こんなになるまで……余程踊るのが楽しかったとみえます」
「そうだな。踊るのがこれほど楽しいと言う事を今まで忘れていた」
「それは良かった、と、危ない」
と、フォレストは姫の頭を撫でようと伸ばした手を引き戻す。この一週間姫に触れないと言ったのは自分だ。
後悔先に立たず、知らず苦笑する。そして一瞬だけとても愛しげに姫を見つめ。
「では、私はこれで」
優雅な仕草で立ち上がった蒼の賢者は扉へ向かっていく。
「あ……」
待て、とフォレストに声をかけようとして姫は口を閉ざした。彼の後姿が声なくそう自分に言っている気がして。
フォレスト……。
拒絶されている訳ではない。ただ本来あるべき主従の関係になっただけだ。
今迄当り前すぎた事が、突然なくなったから少し寂しいだけなのだ。
普通の主従とはこんなに味気ないものだったのか……。
「さて、私も自室へ戻るとしよう」
すっかり傷の治った足ですっと立ち上がると姫はサロンを後にした。
翌日。
定刻通りに現れたディルチェは優しく丁寧に姫にダンスの手ほどきをしていた。
彼は相変わらずいつも通りであったが、今日は少々姫の様子がいつもと違っている。
「あっ! すまぬ」
どこか気持ちが定まらないようで、うっかりディルチェの足に引っかかり転びそうになる。
うう、踊りにくい。
ただ見られているだけなのに何故こんなに踊りにくいのだ。
姫はちらりとその視線の先の人物を恨みがましく見てすぐに姿勢を正す。
「どこか具合が悪いのですか? 昨日はこれ程つまづいたりしなかったでしょう」
「いや、大事無い。平気だ、続けよう」
そうだ。これ位で詰まっていてどうするティナローザ。
姫は自らの名を心の中で口にすることで自分をより戒める。
気を取り直して、教わった通りに曲の旋律に合わせて足を運んでいく。
そして、一時はうまくいくもののやはり途中で足をひっかけたり調子を崩す、という事を繰り返していた。
「……」
姫の調子を狂わせているのは他でもない、フォレストだ。今日は一日空きが出来たので姫の様子を見る為に同行している。
昨日の姫の様子があまりにも楽しそうだったから、どんなダンス指南が行われているか興味があったのだ。
彼の噂は良く聞いていた。なるほど、教え方も上手いし女性に好かれる容貌も持ち合わせている。
ディルチェはただただ真面目にダンス指南を姫に施している。しかしそれさえもフォレストにとってはやや不快であった。
踊っている様子から姫が彼を信頼している事が見て取れて、それが妬ましくもあり、また一生懸命ダンスを踊ろうとする姫からは目が離せずにいた。
無論、表にはそんな素振りは微塵も見せず、いつもの微笑を浮かべて姫を見つめているようにしか見えない。
ああ、あんな事言わなければ、私がダンスの手解きをしてあげられたと言うのに。
フォレストが短い吐息を吐くと、ちょうど休憩を入れる事になった。
「フォレスト、ちょっと来い」
神妙な面持ちでフォレストに声を掛けた姫は日当たりの良いバルコニーへ歩いていく。
後を付いて来るフォレストが来るのを確認すると、姫はフォレストを見上げて罰が悪そうに言った。
「あまり私をじろじろ見るな……」
「じろじろとは人聞きの悪い。温かく見守っているだけですよ、私は」
「そなたがあんまり見るから、視線が気になって集中できぬ」
恥ずかしいのか、姫はほんのり頬を朱に染めながら言う。
「つれない人だ。触れられないと解っているのに見守る事すら駄目だというのですか?」
触れられないも何もそう自分で言った事は棚に上げ、フォレストは意地悪く答える。
「そ、そんな事は言ってない! ただ……」
調子が狂うのだ、と消え入りそうな声で姫は言った。
「自意識過剰なのでは? 私如きの視線など流してしまえば宜しい」
いけないと解りつつも、こういう姫が可愛すぎてフォレストは思わず意地悪をしてしまう。
「……っ、とにかく、今日はもういい。明日からはここへ来るな! これは命令だ」
「……御意」
気分的にはちっとも御意では無いが、命令されるほど嫌なら顔を出すまいとフォレストも心を決めた。
二人の間に気まずい空気が流れる。
共にそこから動けないでいる所へ、そろそろ再開しましょうと侍女のリアフが姫を呼びに来て、姫はダンスを再会する。
フォレストは、今日の指南が終わるまでずっと姫を何とはなしに見つめていたのだった。
そして彼がこの日以降この場所へ足を運ぶ事は無かった。
舞踏会当日まで、姫のダンスの進み具合は順調であった。
しかし姫本人の心には一握りの寂しさがずっとずっと居座っていた。
一応ダンスは問題なく踊れるようにはなった。けれど、フォレストが自分の前に姿を必要最小限しか見せなくなってから、多少物足りない気がしていた。
自分から来るなと言っておいて、我侭だな。私は。
居たら居たで気になって仕方が無いが、居なければ寂しさが心に蟠る。
この数日間、手すら握っていない。
ダンスは人前で踊っても誰にも引けを取らないほど上達したと、師匠は言ってくれた。それはきっとお世辞ではない。
実際、師匠と踊っているのはとても楽しかった。踊る事の楽しさを思い出させてくれて感謝している。
けれど。何かが足りないような気がして。
その足りない何かは―――――。
「……」
姫は愛しい人の名を口にしようとして噤んだ。
「はい、姫様。準備が出来ましたよ。とっても綺麗ですわ!」
リアフの声にはっと我に返り、正面を見ると鏡の中に華やかに着飾った乙女が映っている。
「だ、だれだ。これはっ! お姫様みたいじゃないかっ」
自分が動揺すると鏡の中の綺麗な乙女も同じ仕草をする。
「誰と聞かれましても。姫様は姫様なのですが」
リアフはとても満足げににっこりと笑みを浮かべる。
淡い桜の花びらのようなふんわりとした素材のドレスを身に纏い、紫銀の髪の一部を高く結い上げ、淡い光を宿した月長石や黄水晶などの宝石で彩られた繊細な銀細工の髪飾りで留めて。
耳には薔薇水晶の耳飾りがしゃらりと揺れる。
御伽噺の中からそのまま抜け出してきたような、春の柔らかな光に照らされた桜色の花のような可憐な姫君。
「とても、とても素敵ですわ……」
やはりこの色のドレスを選んで良かったと侍女は心底満足げであった。
そして軽い足取りでダンスの師である金髪の青年を呼んできた。
「……これは美しい」
ディルチェは姫の侍女が得意げに自分を呼びに来た理由を瞬時に理解した。
「お手をどうぞ、可憐な姫君」
柔らかな日差しのように微笑んで、エスコートする為に腕を差し出すと、少しはにかみながら宜しく頼む、と姫は彼の手に繊細なレースの白手袋で覆われた自分の手を重ねた。
皆の期待と高揚感ですっかり熱を帯びた舞踏会場は、二人の登場で更に熱気を帯びた。
それは華やかで楽しい舞踏会の始まり。