蒼の賢者。
物心付いた頃にはもうフォレストはそう呼ばれていて。
そう言えば私はフォレストの事をあまり良く知らないのではないか。
そりゃあ、守り手になるまでほぼ面識なかったからというのもある。
フォレストの小さい頃の話とか、家族の事とか一度も聞いた事が無い。
そのくせ人の事は必要以上に良く知っているのだ。なんだかちょっと癪ではないか?
バルコニーから初秋の少しひんやりとした風に身を委ねつつ姫はぼんやりと、そんな事を思っていた。
今日は少し風が強く、姫の紫銀の髪は波のように揺ら揺らゆらめく。さほど手入れをしている訳でもないのに艶があり弾力に恵まれているそれは、かなり長いというのに絡まる事さえない。
まもなく日没を迎えようとしている空の茜色が姫の菫色の瞳に艶やかな色を添える。
何処からか舞い落ちてきた葉が姫の眼前を掠め、そのまま視線を下に落とす。
すると当然手すりに添えていた手が視界に入り夕日に煌く存在が姫の視線を釘付けにする。
「……っ」
思わず姫は息を呑む。先日、フォレストの手により姫の指に嵌められた指輪型の魔力制御装置(リミッター)だ。
あれから数日経っているのに未だにその感触に違和感を感じ、今ではすっかり左手の中指を触るのが癖になっている姫だった。
時々それに気づいては意識しすぎだと慌てて手を離す事を繰り返すのも日課になっていた。
だって、フォレストがいけないのだ。
あんな、心臓が跳ね上がるような事を恥ずかしげも無く口にするから。
けれど――――。
自分達が身分違いの恋愛をしている事実には何の変化も無い。それを思うと胸が締め付けられる思いがする。
これから、この先どうなってしまうのだろう。
こんなにフォレストと深く関わってしまって。無論後悔などしていない。
しかし誰だって幸せになりたいのは同じだ。
願わくばフォレストと幸せになりたい。私は。
「……」
姫は口元に左手を引き寄せ、瞼を軽く閉ざし、指輪にそっと口付けを落とす。
「それに私は幸せにならなくては……」
切なさを孕んだ声と共に脳裏に浮かんだのは仲良しだった騎士団長の顔だった。
と、その時バルコニーと部屋を繋ぐ扉を二度叩く音がして、姫は後ろを振り返る。
そこには見慣れた守り手の姿があった。
「フォレスト。勝手に入ってくるなと……」
仮にも乙女の部屋だぞ?
「一応、ノックはしましたよ。それにリアフが入れてくれました」
フォレストは姫に爽やかな笑みを向ける。
「む……」
「ふふ。頼りになる侍女がいて私は嬉しいです」
勝ち誇った様子のフォレストに姫は渋面になる。
「うぬぅ〜リアフめ……。明日のおやつは抜きだ」
「八つ当たりはみっともないですよ、姫」
「ふん。それで何をしにきたのだ、フォレスト」
「またそんなつれない事を。恋人に会うのに理由は要りません」
言いながらフォレストは姫の体を優しく抱き寄せる。
「こっ、こいっ……」
この辺りには誰も居なかったから良かったものの、一応表では秘密になっているのだし、いざはっきりと言葉にされると焦るではないかっ!?
いや、多分フォレストはうっかりバレてしまっても良いとか思っているに違いない。
そういう奴だ、コイツは。
頬を染めながらも、周りに人が居ない事が解っているので姫は抵抗しない。
それなりに鍛えてはいるが一見華奢な少女の体はすっぽりとフォレストの腕の中に収まった。
その様子に満足気に目を細め、銀髪の賢者は紫銀の滑らかな髪に顔を埋める。
「……あの日見た黄昏時と重なりますね」
しっとりと艶やかな声が軽い媚薬のようで。
「そ、そうだな」
姫は即座に返事できず、一呼吸おいてやっとそれだけ口に出来た。
この腕には何度も抱かれているのに、どうして私はいちいち恥ずかしくなるのか。
「まだ、恥ずかしい?」
思考を見事に読まれて、恥ずかしさのあまり姫は下を向く。
「……本当に可愛い方だ、あなたは」
耳元で囁かれ、姫は一瞬体を震わせた。
こんなに甘い声だったろうか?
聞いているだけで力が抜けそうな程。
「ティナ……」
甘く低い囁きと共に耳朶に触れる柔らかな感触。
次の瞬間、姫は。
「わあっ! だ、だ、駄目だ!!」
思い切りフォレストの腕を振り払っていた。
折角の甘い雰囲気はどこへやら、フォレストは突然の出来事に不満の色を隠さない。隠せないではなく隠さない。
ふてくされた少年の様に言い放つ。
「駄目、とは。何が?」
「へ?」
まさか聞き返されるとは思わなかった姫は間抜けな声を上げる。
「駄目だと仰いました」
拒絶された事が物凄く心外だったらしいフォレストは、珍しく不機嫌顔だ。
その迫力に圧されながら姫はなんとか言葉を紡ぐ。
「うっ、うーん。えっと……そうだ! 身の危険を感じたと言うかっ」
一瞬にして凍りつく空気。
言ってからしまったと、姫は両手で口を覆うがもう遅かった。
「……ふっ。いいでしょう。姫がそういうのなら今日から一週間あなたに触らないで通しましょう」
いつもの微笑はそのままに不機嫌オーラを纏ったフォレストはなんだか不気味だ。
「わ、私は別に何の問題も無いが」
あっさりとそう言い返す姫に、フォレストの心は少なからず抉られたに違いない。
「何の問題も、ない、ですって!?」
今でさえこんなに我慢しているというのに、一週間も触れ合えない事が何でも無いと言い切る姫をフォレストは少し憎いと思った。
「後で泣いたって知りませんからね」
言うが早いか、フォレストは姫を引き寄せ強引に口付ける。
「んん!?」
突然の行為に姫は驚いたがそれとは逆に重ねられた唇はとても優しくて。
優し過ぎるくらい優しい。
そして、とても深い。
それ以上に……気持ち良すぎて、やばい、気が……。
「……っ」
自力で立っている事が徐々に困難になってきた姫は、フォレストにしがみつくようにしてその行為が終るまで身を委ねざるを得なかった。
丹念に愛撫され、漸く開放された薔薇色の口から思わず甘い吐息が漏れた。
フォレストはすかさず姫を抱きしめていた腕も解放し、自分にしがみつく姫の手をはがす。
「フォレスト?」
「後はご自分で」
支えを失ってへなへなと床に座り込む姫を見下ろしながらフォレストは踵を返すと、そのまま扉へ向かい歩き出す。
「ちょ、フォレスト! このままにして行く気か!」
熱も覚めやらぬまま、腰砕けな姫は不安げに声をあげる。
「身の危険を感じるのでしょう?」
扉の前でぴたりと止まり振り返ったフォレストの顔に浮かぶのは意地悪な笑みだった。
「!」
そう言われては流石に言い返せず姫は目を瞠る。そのままフォレストは出て行ってしまった。
そして姫はわなわなと震えながらこう叫んだ。
「フォレストの……意地悪ー!!」
いくらなんでもここまでしなくても良いではないか!
意地悪!
鬼畜!
莫迦!
そなたなどもうしらん!
そうして、姫は暫くバルコニーにへたり込んでいた。
廊下で姫の叫びを聞いたフォレストは小さく噴出していた。
「ちょっと意地悪でしたかね」
本当は毎晩でも抱きたいのをキスだけで我慢しているのだから、これくらいの復讐はささやかな悪戯の範囲内だとフォレストは思う。
まあ、姫相手ではそのキスさえも禁忌な訳ですが。
そんなの私の知ったこっちゃ無いです。
と、賢者らしからぬ思考をしつつフォレストは自室へ足を運んだ。
扉を開け、椅子に腰掛けるとふう、と短い息を漏らす。
「しかし……」
姫にはああ言いましたが、私の方が先に我慢出来なくなるかもしれませんね。
そうして初秋の夜は更けていくのだ。
次の日。
「ふう。やはりリアフの淹れてくる紅茶は美味しいな」
鼻腔を優しく擽る程よくブレンドされたハーブティーの香りは姫の嗅覚を満足させた。
城の庭で育ったカモミールやラベンダー、薔薇、それにバニラで甘い香りを添えた紅茶はまろやかな味わいでストレートでも飲みやすい。なので、姫は砂糖は入れずいつもストレートで飲んでいる。
お茶請けには、ヘーゼルナッツやアーモンドなどを散りばめた香ばしいクッキーが用意されている。
と、優雅にティータイムを過ごしていた姫の下へ嵐の如く近づく足音があった。
勢い良く開いた扉の音と共に現れたのはイルアーナ国王である彼女の父親だ。
「ティナローザ! 一週間後、舞踏会を開く事にしたぞ! お前は勿論参加するようにな」
嬉々として告げる王に姫は鈍い反応を返す。
「え?」
ティーカップに添えられた手はそのままに顔だけ王の方を向いた。
「どうして急に舞踏会など」
「最近、涼しくなってきたし偶にはごく親しい者達と内輪な舞踏会も良いかと思うてな」
それに、と王は付け足すように小声で言った。
偶には妻と心ゆくまで踊り明かしたい、と。
そんな王の様子に姫は微笑を漏らす。
「父様は本当に母様想いだな。そういう事なら喜んで」
「勿論、そなたと踊るのも楽しみにしているのだぞ?」
言いながら王は姫の頭を優しく撫でた。
力強くて大きな手だ。
頭を撫でられるのは子供扱いされてる気がするが、父様にされるのはちっとも嫌じゃない。
「私も父様と踊るのが楽しみだ。数年振りだから足を踏まない様に努力する」
そうして、他愛ない会話を繰り返し王は部屋を出て行った。
まだ踊りを覚えているかな? 少しステップを踏んでみるか。
「リアフ、少し相手をしてもらってもいいか? ダンスの予行演習をしてみたい」
姫は傍に控えているリアフを呼んだ。リアフは楽しそうに姫の前に立つ。
「はい、姫様。とりあえず、ワルツで宜しいですか?」
「うむ」
そして、姫はリアフと共に軽快な一歩を踏み出す。
……本人は踏み出したつもりだったと言った方がいい。
「いったーい!」
思い切り踏まれた侍女のは痛みに思わずしゃがみ込む。
「す、すまん! リアフ、平気か?」
「はい、なんとか」
微笑む笑顔が痛々しいのである。
「仕事に支障が出るようなら今日はもう下がっても良いからな?」
姫は自らも腰を落としリアフの両肩に手を添え気遣う。
「ふふ、そんな大袈裟ですわ。姫様」
必要以上に気遣われてリアフは鈴のようにころころと笑った。姫も安堵しそれに笑顔で応える。
「じゃあ、一人で踊ってみるから見ててくれるか?」
「勿論ですわ」
「うむ」
気を取り直してステップを踏み始めた姫だったが、ほんの数歩動いただけで立ち止まる。
「えーっと……次は、どうだったかな?」
最後に踊ったのは数年前なのは確かだが、まさかここまで踊りを忘れているとは思わなかった。
「姫様、申し上げにくいのですが、それは男性用のステップですわ」
笑いを噛み殺しながら侍女は言った。
「なっ!?」
羞恥に一瞬にして頬が赤くなる姫。
「あれですわね、踊りの方はほとんど忘れてしまっているとお見受けしましたし、一週間あるのですから講師を呼んではいかがでしょうか?」
「うう、それもそうだな。専門職に習うのが手っ取り早いか」
踊れないばかりか、間違って覚えていたなんて今更ながらに恥ずかしい。
そういえば、舞踏会などほとんど出席していなかったな。
騎士団に入っていたし、魔族退治も忙しかったし、な。
父様もあんなに張り切っていることだし、がっかりさせぬようにこの一週間で完璧に覚えなくては!
その日、とある貴族の下へ姫名義で早馬が駆けたという。
社交界で彼の名を知らぬ者は居ないほどその容姿とダンスに定評がある青年だ。
赤薔薇の封蝋で留められた手紙を開封し、ざっと目を通す。
「なるほど、私にダンスの指南をしてほしいと」
自ら魔狩人に志願したという何とも勇ましい姫だが、幾度か目にしたことはあった。そんな話しとは対照的にとても可憐な少女だったと彼は記憶している。
「喜んでお受けします、と返事を出しておきなさい」
落ち着いた温かみのある苔緑の瞳を小間使いに向け、屋敷の主は告げた。
小間使いが部屋を出るのを確認すると、主は窓の外へ視線を移す。振り向きざまに腰ほどまである金色の髪がさらさらと滑り落ちる。
黙って立っていても滲み出てくる気品と美貌を兼ね備えた青年に、どれほどの貴婦人達が社交界でため息を漏らしてきたことだろう。
加えて彼は未だに独身だ。それを年頃の娘が放って置くはずも無く、社交の場では常に彼は貴婦人達の輪の中心にいる。とっくに身を固めていてもおかしくは無い年齢であったが彼は特定の恋人を作ろうとはせず、常に言い寄る女性達と一定の距離を保っている。
一国の王女にダンス指南するなど、滅多にあることではない。失礼の無いよう気をつけるとしよう。
青年は柔和な笑みを浮かべ城の方角を見つめたのだった。