フォレストの言う事は理解できる。けれど、頭で理解できていても心は拒絶反応を起こしてしまう。
世界最高の結界師であるカリムフラウ・ハーゲンに力を貸して貰う為に、言いなりにならねばならぬなど……どうしても耐え難い。こうだと解っていれば他の者に同行して貰えば良かった。
フォレストが優しいから表には出せないけれど、やっぱり彼女に対して嫉妬してしまう。
そんな事を悶々と考えながら姫は眠りに落ちていくのだった。
しかし眠りが浅かったのか、まだ辺りが薄暗い内に目が覚めてしまう。
はっきりとしない意識の中で温かいものに包まれているのだけは何となく感じ取れる。
ゆっくりと規則正しい鼓動が、とくんとくんと肌に伝わってくる。
大きくて温かい。この感覚は私がとてもよく知っているものだ…。
フォレストの腕の中にいるのと同じ感触だ。とても安心する。
……何!?
姫はおぼろげな意識を覚醒させる。見開いた視線のすぐ先には愛しい人の寝顔が、あった。
…いつの間に…私に気配すら悟らせず。
一瞬声を上げそうになったのを何とか押し留めて、平常心を保とうとする。説明すると、フォレストが姫を抱きしめて一緒の布団で眠っているのだ。
こういうのは初めてではないにしろ、やはり慣れる訳も無く……。
己が鼓動が急激に高鳴るのが解り姫は頬を薔薇色に染め上げる。
どうして、私ばっかり…っ!
頬が熱い……。
でも、どうしよう。このまま起きたらフォレストまで起こしてしまうな。
姫は上気した所為か潤んだ瞳でフォレストを見つめている。
恥かしいけれど、やっぱり嬉しいのも事実…。
未だに謎な部分もあるけれど、私はフォレストが好きだ。
自分でもどうしようもない位に――――。
フォレストの唇に触れるだけのキスを落とし、姫はもう一度眠りにつくべくフォレストにそっと寄り添った。
次に目覚めた時はフォレストに急かされての事だった。
「う…二度寝などするのでは無かった…」
「二度寝?」
フォレストの問いかけに適当にお茶を濁して引きつった笑みを姫は浮かべる。
すっかり身支度を整えていたフォレストは悪びれた様子も無く「表でまってます」と言い残し早々に姫の前から立ち去ったのであった。
まだ幾分眠い脳を無理矢理活性化させながら、姫は素早く身支度を整えて外へでる。
小走りに玄関の前まで行き扉を開けると、グリフォンの前で姫を待っているフォレストとこれまたグリフォンに乗ったカリムフラウ・ハーゲン=カリィが佇んでいた。
「準備はよろしいですか?」
フォレストはいつもの微笑で姫に確認する。「うむ」と頷き、姫は指し伸ばされた彼の手を取る。姫を軽々とグリフォンの背に乗せるとフォレストもその後ろに跨る。
「では空イルカの所へ行きましょう」
そうして二匹のグリフォンが空へ舞い上がっていく。
ものの十分と行かないうちにカリィは言った。
「面倒臭いわね。近道するわよ?」
カリィはグリフォンに乗ったまま右手で簡単な印のようなものを組み、聞いた事の無い言語で呪文を唱えた。
すると十メートルほど先の景色が蜃気楼のように歪んで水面のような壁が現れる。
「ついてきて」
言いながらカリィはその水面へとグリフォンを走らせ、すうっと吸い込まれていく。その様子を呆然と見ていた姫だったがフォレストの一言で現実に戻される。
「行きますよ、姫」
「え?」
と言った時にはもう水面の中へ入っていた。以前、ヴァル・アルザースへ行った時に体験した聖杯の移動時と似たような感覚を覚えた姫だった。
それは十秒にも満たない僅かな時間で。
しかし通り抜けた視界の先には見覚えのある、空中に浮く島が確かにあったのだ。
「……」
流石にもうこれ以上驚くまいと思っていたが、私は結構小心者らしい。
姫は前方を行くカリィを眺めながら心の中で呟いた。艶かしい腰元から生えた尻尾が優雅に揺れる。
本当に生ける伝説なのだな、彼女は。説明されるまでも無く、解る。
彼女は恐らく次元に干渉する事が出来るのだろう。……そう言えばフォレストが言っていたな。
姫はカリィの屋敷の前で落とし穴に落ちて全力で走っている時の事を回想する。
ここは精霊界にやや近い所だと。
先ほど通り抜けてきた水面も次元に干渉した歪みであのように見えたのだろう。
次元に干渉するという事は界と界の間にある壁を己の才と魔力で凌駕しているのだろう。
……優れた結界師は、時間の束縛さえ受けなくなると聞く。
カリィがフォレストの張った結界に触れると、音も無く空気に溶け込むように消えていく。続いて懐から色鮮やかな石を取り出し宙へ放った。キラキラと光の粉を撒きながら石は島の周囲を囲むようにそれぞれ散った。
「あれは、魔晶石か」
姫の言葉にフォレストは頷く。
「より強力な結界を張ろうと思えば、純度の高い魔晶石を使うのが一番効果的なのです。使い手が一流であればその効果は半永久的なものになります」
それでも普通の結界師が彼女と同等のそれを張ろうとすれば下準備にひと月はかかるでしょうけどね、とフォレストは付け加える。
カリィは肩にかかる髪を優雅な仕草で払い、その瞳に真剣な色を浮かべる。
魔力の源であるマナが長い年月を経て生まれた空イルカ達がいる此処は、非常に魔力の濃度が高い。
カリィが両手をすっと前方に伸ばし水を掬う様に頭の辺りまで手を上げると、場に満ちているマナが彼女の掌へ日の光を反射させながら集まっていく。ダイヤモンドダストが彼女を中心に渦を巻いているような、と言ったら解りやすいだろうか。
歌うような流暢な詠唱が周囲にこだまするように聞こえてくる。カリィが詠唱をしていくにつれ、島をぐるりと囲むようにぼんやりと魔法陣が浮かび上がってくる。否、良く目を凝らして見ると彼女の詠唱とともに淡い光を放ちながら魔法陣に吸い込まれるように、雪がとけて染み込んで行くように、そしてまた予め己が場所を定められているかのようにマナはそれぞれの場所へやんわりと降り注ぎ魔法陣を成していく。
「綺麗だ……」
感嘆の言葉が知らず口をついて出る。
いつルシス・ドーヴァが襲ってくるかも解らない時にこんなことを暢気に思っている場合ではないのかもしれない。思えばフォレストにここへ案内されてから今みたいな、不思議で綺麗な物を良く見ている気がする。
しかし、ふと疑問が姫の心に生じる。
フォレストが賢者なのは解っている。けれど何故これ程までに様々なことに通じているのだろう。歴史の真相や、この空イルカのこと、カリィのこと。普通の人間がこうも容易く伝説上の人物に会えるものなのだろうか。
その時、姫の思考を打ち消すように魔法陣が完成し辺りは一瞬閃光に包まれた。
強い光の衝撃できかない視界を、それでも懸命に目をこらすと徐々に慣れてくる。眼前には島ひとつ覆う巨大な魔法陣が出来上がり、幾重もの複雑な模様が其々歯車のようにゆっくりと回転している。
暫く呪文を詠唱していたカリィが締めに入る。
「――――我、この地に固き守護を与えん。シルー・ラ・ロート・ディメンタ」
詠唱が終わると同時に結界は瞬きの間に消えていた。つい先ほどまで大きく美しい魔法陣があった名残も無く、島だけがいつもと変わらずそこに在った。
「…相変わらず無駄の無い、見事な腕前ですね。カリィ」
フォレストが微笑を浮かべると、カリィも妖艶に微笑む。
「これくらい当然だわ。もっと褒め称えなさいな」
「これほど純度の高い結界は今日では滅多にお目にかかれませんよ。貴女は今も昔も世界最高の結界師なんですね〜!」
に始まり、フォレストは次々とカリィを褒め称える言葉を羅列していく。それにつれカリィの表情もみるみる緩んでいく。
「本当にカリィは綺麗なだけでなく、才能もあって素敵な女性ですね」
「やだ、フォレストったら! 本当の事ばっかり言って!」
カリィはかなり褒め殺しにあい、でろでろな状態になっている。姫は半ばフォレストの言葉がわざとらしいと感じつつも黙って見守っている。
……そう、彼女はおだてにとっても弱いのだ!
「そんな素敵な貴女の帰りを屋敷ではさぞ多くの方がお待ちでしょう」
フォレストはにっこりと微笑む。
「はっ! そうね、そうだわ。私の可愛い下僕達が私を待っているわね〜!」
「そうでしょうとも。貴女のような美しい主人には滅多に会えませんから。早く帰ってあげないと寂しがっているのではありませんか?」
「そこまで気遣ってくれてありがと、フォレスト。じゃあ私は帰るわね♪」
「いやなに、礼を言うのはこちらの方です。お気をつけて」
フォレストは片手をひらひらとカリィに向けて振る。
「じゃあね」
言うが早いかカリィはそこから一瞬の内に姿を消した。恐らく来た時同様次元を操って行ったのだろう。
「……ふう、やれやれ」
カリィが姿を消すとあからさまに疲労の色を見せるフォレスト。先ほどの高いテンションとのあまりの格差に姫は一瞬目をぱちくりとした。
「かなり上機嫌で帰っていったな…」
そんな姫にフォレストは少し悪戯っぽい笑みを浮かべながらこう言った。
「でも内心、ほっとしてるでしょう?」
自分の心を見透かされているような発言に、姫の頬は一気に赤くなった。
「な、な、何の事だ!?」
「ふふ、赤くなったという事は図星ですね。ほんっと姫ってばかわいい〜!」
フォレストは後ろから姫を抱きしめる。
「莫迦! 放せ無礼者! 私はヤキモチなんて微塵も焼いてないっ!」
フォレストの腕から逃れようと必死にもがいていると思わず本音が零れてしまった。しまった! という表情を浮かべると、フォレストが堰を切ったように声を上げて笑ったのだった。
「…っ、笑うな!」
「不可抗力です」
笑顔を絶やさぬまま、フォレストは空イルカのいる方へグリフォンを操り地に降り立つ。悪しき心を持たぬ者にとってはカリィの結界はあってないのと同じなのだ。
フォレストは先にグリフォンから降りて姫に負担がかからないように、そっと地面に降ろす。
「結界も張られたことですし、少しゆっくりしてから戻りましょう」
「うむ」
フォレストの提案に依存は無いと、姫は即答する。
姫はさっそく空イルカと触れ合うべくその可愛らしい姿を探すが、辺りには一匹も見当たらない。おそらくここ数日のごたごたの所為で警戒しているのだろう。
姫は奥の方へと歩みを進める。その後からつかず離れずしてフォレストがついてくる。暫く歩き、一段と森が深くなった辺りに少し開けた場所があり、空イルカ達は群れになり漂っていた。
「…いた」
姫の表情が柔らかくなる。空イルカは相変わらずのんきそうに愛くるしい様子で、不思議な色合いを帯びて半透明の美しい色をしている。
驚かせてはいけないと暫く木陰から見守っていると、群れの中の一匹がこちらに気付き「キューイ」と鳴き声をあげる。
「見つかってしまったか」
姫はやんわりと微笑する。それに安心したのか空イルカは姫の傍へ寄ってきた。
右手をそっと差し出すと、空イルカは手の甲にその頭を摺り寄せてきた。何度も同じ行為を繰り返す。
「悪魔の手はもう二度とここへは届かないだろう。ずっと、これから先も変わらずに今のままでいられたらいいな」
「キュイ!」
姫の言っている意味が解るのか、解らないのか空イルカは短く鳴いて群れのいる方へ戻っていった。途中で振り向き何度か短く鳴く。どうやらこちらへ来るように誘っているらしい。
姫達が群れの方へ歩いていくと、空イルカ達が二人の周りに集まってくる。
姫はよほど嬉しいのか、時折くすくすと笑い声を漏らしながら空イルカを抱きしめたり頬を寄せてみたりと愛撫しまくっている。
フォレストはそんな姫をただ眩しそうに…けれど穏かな眼差しで見つめている。その肩には淡く青い光を宿した空イルカがちょこんと顎を乗せている。
そうして、姫の空イルカとの交流が一段楽した頃フォレストが言った。
「姫、次は私の番ですよね」
「ん? 何がだ、フォレスト」
「空イルカにしたような事を私にもしてください」
フォレストは至極当然とばかりに満面の笑みを浮かべる。
「え?」
「フォレストイルカですよ〜キュー!」
空イルカよろしくフォレストは姫に擦り寄る。
「ななな!? そなたいい年をして何を…って抱きつくな!」
「だあ〜って姫ってばイルカさん達とばっかり仲良くして私を蔑ろにするんですもん。添い寝した時は黙ってちゅーしてくれたのに…フォレストさん悲しい」
一瞬姫の頭の中は真っ白になる。
添い寝って…キスって…もしかしてコイツ……。
確信犯という奴、か!?
顔から火が出そうなくらい姫の頬が熱くなる。しゅうしゅうと頭上から湯気が立ち昇るのが見えそうな気さえした。
「そ、そ、そなたまさか…あの時起きて……!」
「何か問題でも?」
フォレストはしれっとそう返してきた。今まで知っていながら黙っていたのだ。
恥かしさと怒りで複雑な心境に少々混乱状態に陥る姫。
そもそも勝手に人のベッドに潜り込むのが悪いのだ。しかも当の本人は全く悪びれた様子もなく。
確かに口付けたのは私だが、あの時フォレストを追い出さなかったのは私の落ち度なのだろうか。ああ……それにしても恥かしすぎる!
恥かしさのあまり今にもここから消えてしまいたい。穴があったら入りたい。
そんなに早鐘を打つな、心臓。
「ティナローザ」
不意に名前を呼ばれてフォレストを見てしまう。
「んー、ティナ。ティナにしましょう」
何だ、今度は。
「二人きりの時は、恋人らしく名前で呼ぼうかなと。いいでしょう? ティナ」
ドキリとした。今まで名前で呼ばれる事はほとんど無かったから、何だか気恥ずかしい。
「そ、それは別に構わない……」
でも嫌じゃない。寧ろ嬉しい。姫だといかにも姫と従者な感じがして、少し突き放されているような気がしなくも無かった。
その時フォレストの唇が自分の頬に押し当てられるのが解った。
「ひゃあ!」
思わず声をあげてしまう姫。
「これはまた色気の無いことだ」
それでもフォレストは楽しそうに笑っている。
「フォレスト!」
姫は恥かしさのあまり思わず大声をあげる。しかしフォレストはそんな事お構い無しに、優しい笑みを姫に向けたまま、もう一度彼女の名を口にする。
「ティナ」
今までになく、甘味を含んだ声で呼ばれ一瞬あっけに取られる姫。
そしてもう一度フォレストはその名を口にする。
「ティナ」
これほど愛しげに切なく、そして甘い声で自分を呼ぶ存在は今まで居なかった。
名を呼ばれているだけなのに、それはとても心に優しく染み込んでいく。
もっと呼んでほしい、と思った。
それに答えるようにフォレストはもう一度姫の名を口にした。
「ティナ…私の可愛い姫君」
うっとりとフォレストの声を聞いていると、フォレストの青い瞳に自分の姿が映っているのが見えた。
その綺麗な瞳が細められたかと思うと、柔らかな感触が唇に当たる。唇を長めに押し当てられた後、下唇を甘噛みされると甘い痺れが走った。
そのひと時はあまりにも幸せで、愛しくて切なくて。そして気持ち良かった事しか覚えていない。
我に返ると、しんなりとフォレストにもたれ掛かっている自分が居た。
フォレストの体温がとても心地良い。暫くこのままで居たい。
それは言葉にしなくても互いに解っていたことだった。二人は暫く無言で抱き合ったまま幸福の中にいるのだった。
そうして二人が空イルカのいる島を後にしたのは夕刻すぎであった。
城に戻る頃にはすっかり辺りは夜の気配に包まれていた。
例の如くフォレストは姫を彼女の部屋まで送り届ける。
「すっかり遅くなってしまいましたね。空イルカもこれで恐怖に脅かされる事もなくなりましたし一安心ですね」
「そうだな。本当に良かった」
「それはそうと、一つ問題が」
「なんだ?」
「濃厚なキスをすると姫は我に返るのに時間がかかるので、その間私はずっとあなたの艶っぽい表情を見ていなくてはなりません。そうするとですね、こうムラムラとこみ上げてくるものが……」
「ば、莫迦っ!」
姫は瞬時に頬を薔薇色に染め、フォレストを睨みつける。
もう! もう! もう!
そんな事面と向かって言われたら私は恥かしすぎてショック死しそうになるだろうが!
「ほう、賢者である私に莫迦と言うのはこの口ですか。問答無用で塞いで差し上げましょう」
フォレストはニヤリ、と意地悪な笑みを浮かべる。そして姫の体を強引に引き寄せ……。
「……え?」
その額に優しく口付けした。
予想外の事に姫は思わず間抜けな声を漏らしてしまった。フォレストはにっこり微笑んでこう告げた。
「冗談です」
「なっ、ま、また人をからかって…!」
「愛ゆえの悪戯です。お許しを、姫。ではまた明日」
そう言い残しフォレストは立ち去っていった。
その夜、姫がなかなか寝付けなかったのは言うまでもない。