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「茨の刻印」・36 |
キラキラと砂粒のような粒子を撒き散らしながら封環は空気に溶け込むように消失する。
それと共に吸収されていた魔力も銀色の美しく神秘的な光を放ちながら、煙幕さながらに大気に溶けていった。
その向うに、ゆっくりと見えるのは変わり果てた漆黒を纏った姿のルヴォラムだった。
「衛兵! この場に居る者達を速やかに避難させよ!」
フォレストの鋭い一言に衛兵達は弾かれたように、皆を安全に逃がす手筈を整える。
「騎士団の者達は皆に被害が及ばぬよう、ルヴォラムを包囲せよ! オルファードは陛下を」
「はいはい解ったよ」
皆が慌しくパニックに陥りそうな状況で彼らは全く冷静でそつがない。
「フォレストは、私などより全然……しい、な」
姫はそんなフォレストを見て何かぽつりと呟いた。
敵わない――――。
私には直ぐこういう対応は取れない。私では駄目なのだ。
てきぱきと指示を出し場を収めていくフォレストに姫は尊敬の念と少なからず劣等感を抱く。
一方、ルヴォラムは自分が魔物へと変化したことに困惑していた。
その所為もあって、怪我人は出さずに皆が安全に神殿の外へ避難していた。これもひとえにフォレストが冷静に指示を下したお陰だ。
現在、神殿内に残っているのは、姫にフォレスト。オルファードと王。騎士団長ラクエル。そして魔物と成り果てたルヴォラム。
己の目に映るのは漆黒の肌。それは明らかに人間の物とは異質の皮膚。そう、まるで蛇の鱗のような…。
ルヴォラム自身、己の体の変化に戸惑っていた。
(何を戸惑っている?)
自分の内から聞こえる低い声にルヴォラムの表情が固くなる。
(何を驚いている。我らはずっと一緒だったではないか。玉座に就くのだろう? 手始めに今ここに居る奴ら全員血祭りにしようではないか)
ああ。そうだ。私はずっとこの数十年それだけを思い描いて王の下に就いていたのだ。
(期は熟し、今の我々には十分な力もある)
ルヴォラムの口元が奇妙に歪んだ笑みを浮べた。
それもそうだな。皆この場で殺してしまえば何も問題はない。
そしてあの玉座に座るのだ。
邪悪で甘美な内なる声はすんなりとルヴォラムの野望を後押しした。
もう彼を止める事が出来る物も人も存在しなかった。彼は頭のてっぺんからつま先までどっぷりと闇に捕われたのだ。
この邪悪な存在は数十年に渡りルヴォラムの内に潜み続けていた。長い年月を経て、その自我でルヴォラムの意識をのっとる事が出来るほどに力を蓄えていた。
最初はルヴォラムの取るに足らない野心に遊び心で、彼にとり憑いただけだった。
しかし、それこそがこの邪悪な存在……魔族にとってとびきり居心地の良い場所になった。
何故ならルヴォラムは、負の感情に事欠かない存在であったからだ。
嫉妬、憎悪、殺意――――。
これらの感情はルヴォラムの内に潜む魔族にとって最高の糧となっていった。
本来、彼の内に潜む魔族には実体が存在しなかった。が、この数十年でルヴォラムとその魔族の同化が土に染み込む水のようにじんわりと長い年月をかけて、その密度を徐々に高めていく結果となる。
それがあまりにも緩慢で最近まで誰にもそうと解らなかった程に――。
しかし、彼の些細な変化に気付く者が居た。
そう、他ならぬ王であった。
王に即位してから三十余年。ずっと連れ添った仲だからこそルヴォラムの変化に気付くことが出来たのであろう。
王は、ほんの時折、ルヴォラムから禍々しい空気を感じるようになっていた。時には殺気さえ感じる事もあった。
だから噂を流した。
姫が謀反を企てている、と。
これはある意味、危険な賭けであった。何も起こらなければ、我が子を罪人として命を奪う事にもなりかねなかったのだから。
確実にルヴォラムが事を起こすという保証があったわけでは無かったが、王にはこの噂に乗じて彼が何らかの行動を起こすだろうと推測していた。
それはお互い長い年月政務に携わってきた仲でもあり、その中で王はルヴォラム自身でさえ意識していない野心や暗く邪な何か燻っているものを静かに感じ取っていたからだ。
「ルヴォラムよ……残念だ」
どこでどう道を違えてしまったのか。そしてもっと早くそれに気付けなかった自分の愚かさに王は後味の悪い思いをしていた。
「こうなると予め解っていてそうなさったのでしょう? 陛下。今更ですな。心苦しいのなら私が止めて差し上げましょう」
一息ついて、ルヴォラムは冷たく歪んだ笑みを浮かべて言った。
「貴方の命を絶つことで――」
ルヴォラムの手の内に禍々しさを感じさせる黒い魔力の塊が瞬時に集まり、黒い稲妻を纏ったそれは王めがけて空を切るように加速し迫っていく。
「あぁ、もう見苦しいったら。雷華<トルファ>」
いつもと変わらぬ余裕を感じさせる笑みを浮べながら、オルファードがルヴォラムの攻撃をあっさりと雷の魔法をぶつけて相殺する。
「少し痛い目を見てもらおうか」
オルファードは言いながら魔力が宿り燐光を放つ右手をルヴォラムのほうへ突き出す。
「疾刃<フェーズ>」
呪文と共にルヴォラムを一瞬にして風が通り過ぎた。
その直後、前方、姫の側に黒い腕がぼとりと落ちてきた。
腕が切り落とされたのだと気付くのに数秒かかった。
「ああああぁーーーーー!!」
黒く澱んだ血が傷口から溢れ出している。
痛い! 痛い! 痛いぃーっ!
ルヴォラムは人目も憚らずその場で無様にのたうち回る。
今更ながらに気付く。腕だけでなく体中に無数の切り傷が刻まれている事に。
オルファードから放たれた魔法は、圧縮された空気の刃だったのだ。
無数の刃があまりにも速く人の目には捉えきれず、一陣の風が通り抜けた感覚しか無かったのだ。
「お、のれぇ…若僧が…わしをこんな目に遭わせて只で済むと思うなよ……」
最早ルヴォラム自身にも解らなくなっていた。今自我を保っているのは自分か、果たしてとり憑いた魔族なのか。
「ここにいる奴ら全員、殺してやる!!」
ギラギラと赤く染まった双眸に殺意を絡ませ、ルヴォラムは叫んだ。
「させません。戒縛<ロージス>の術をかけさせて戴きました。騎士団の皆さんは包囲を解いて安全な所までさがって下さい」
ルヴォラムが声のする方を見やるとフォレストが落ち着いた眼差しで見据えていた。
「何っ!?」
気付くといつの間にか、ルヴォラムを取り込むように床に魔法陣が淡く浮かび上がっていた。
次いで体が思うように動かせなくなっている事に彼は気付く。
魔力の篭った鎖が彼を制御するように、がんじがらめにしている。
ルヴォラムは何とか逃れようとあれこれと思考をめぐらせ、辺りを見渡す。
彼の斜め後方にいる、騎士団長ラクエルに目が止まる。
「ラクエル! 何をぼーっと突っ立っている! とっととあの二人を始末しろっ!!」
「御意」
ラクエルは無機質な表情でそう答えると、前へ進み出る。
ルヴォラム以外の誰もが思わず我が耳を疑った。
騎士とは弱きを助くもの。
悪を許さぬもの。
王に絶対の忠誠を誓うもの。
本来ラクエルは騎士を絵に描いたような人物であったはずだ。それが何故このような事をするのか、ルヴォラム以外の者は解らず困惑の色を隠せない。
ラクエルはその場から大きく跳躍し一気に間合いをつめオルファードに切りかかる。
「困ったなぁ」
オルファードは王をかばいながら応戦する。ラクエルを傷つける気は更々無いのだ。
何故彼がこのような行動に出るのかはっきりと解るまでは手を下せない。
とりあえず、動きさえ封じれば傷つけずに済むと思い、魔法を放つが、そこは現役の騎士団長だけあってあっさりとかわされる。
「やめなさいラクエル! 何故貴方ともあろう方がこんな真似をするんです!?」
フォレストの言葉にラクエルは攻撃の手を止めて、フォレストの方へ向き直り断言する。
「何故? 譲れないものがあるからに決まっているでしょう」
ラクエルの視線がフォレストから姫へ移行する。その一瞬だけ眼差しが優しくなったが、直ぐに元に戻る。
「譲れないもの?」
「……決して正規の方法では手に入れることが出来ない至高の華です」
フォレストの問いにラクエルは”至高の華”と答えた。その一言でフォレストには彼が言わんとしている事を大まかに読みとることが出来たのだった。
「まさか、貴方は――」
フォレストが次の言葉を発そうとした時、前方から禍々しい波動が押し寄せてきた。
それにいち早く気付いたフォレストは咄嗟に姫と自分と、そしてラクエルに結界を張った。
「がああああああああっ!!」
獣が咆哮するような声を上げて、動きを封じられながらも渾身の力を振り絞って、ルヴォラムが魔法を放ったのだった。
それは放射状にどす黒い軌跡を残しながら、隕石のように荒々しく神殿内に降り注いだ。
数分後、神殿内はその優美な外観を大幅に損なっていた。壁も床も月面さながらに破壊されていた。
壁や陥没した床の破片があちこちに散ばっていて、黒い煙がしゅうしゅうと揺らめいている。
「まったくもう、いきなり何するのさ」
オルファードは呆れたように言い放った。こちらも咄嗟に結界を張ったらしく彼も王も無事だ。
多少のかすり傷は負っていたが。
「ちっ、しぶとい奴らめ!!」
「往生際が悪いですよ、ルヴォラム様。貴方がしている事は立派な反逆行為です」
「だから何だというのだ? わしが勝てばこの国はわしの物だ」
「そこまで堕ちたのですね……」
フォレストは冷たい瞳でルヴォラムを見据える。
ルヴォラムと彼にとり憑いた魔族はほぼ完璧に同化してしまったのだろう。
彼の娘、アリーシャには申し訳ないがこうなってしまっては倒す以外の手立ては無い。
「陛下……宜しいですか?」
彼を仕留めても。
フォレストが青い瞳を王に向けると、彼は否と答えた。
「少し話がしたい」
「御意」
フォレストはルヴォラムを縛り付けている魔法はそのままに、彼がおかしな行動に出ないように心持ち呪縛の力を強めた。
「貴様っ…!」
ルヴォラムが物凄い形相で睨みつけてきたが、フォレストは涼しい顔でその場に佇んでいる。
「余の事がそんなに憎いか、ルヴォラム」
「何を今更。憎いから謀反を起こしたに決まっているだろう?」
ルヴォラムは呪縛に苦しみながらも歪んだ笑みを浮べて見せた。
「何故、それほど余を憎いと思うのだ?」
「何故だと? 王家の血を引いているというだけで簡単に王になれる貴様に何が解る!? どんなに優れていようと、幾ら努力しようとわしが王になれる確率はゼロだ! 幼い頃から、貴様と一緒に様々な事を学んできたが、わしの方が優れている事があっても皆が貴様を誉めそやす。不平等だろう? 優秀な人材も貴様が王というだけで皆そちらへ流れていく。王家に生まれた者はそんなに偉いのか!? 貴様が王家の血を引いているというだけで、常にわしは貴様の次に甘んじねばならなかった。この国の財政を、政治を執るのはわしにこそ相応しいのだ!!」
一気に言葉を発した上に呪縛の魔法に捕われているルヴォラムは、ぜえぜえと肩を上下に揺らし息をしている。
そんなルヴォラムを見つめながら王は一息ついてから、こう答えた。
「玉座を只の権力としてしか見られぬようでは、一国の王は務まらぬ。……出来る事ならそなたを裁きたくはない」
「こんな状況になってまで奇麗事を並べる貴様が、心底憎らしい……がコレで少しは気も晴れるかな?」
ルヴォラムは勝ち誇ったような笑みを浮べる。
王と話している間に、切断された右手を気付かれないように姫の後方へ忍ばせていたのだ。
「何?」
今だ!
ルヴォラムは姫の背後から、心臓目がけて右手を勢い良く突き出した。
「きゃあ!」
王の言葉に被るように、悲鳴が上がる。
「ティナローザ!!」
王の耳に飛び込んできたのは姫の声だった。
宙を舞う鮮血。
床に倒れ落ちる姫の体。
「う…」
姫はゆっくりと起き上がる。
「大丈夫か、ティナローザ!」
王が姫の下へ駆け寄ろうとしたのを、すかさずオルファードが阻む。
「はい。父様」
ほっとしたのも束の間、緊迫したフォレストの声が響く。
「ラクエル! しっかりしてください!」
「え?」
フォレストの言葉に姫は後ろを振り返る。
ラクエルがフォレストに抱きかかえられるようにして、苦痛に顔を歪ませていた。
彼の腹部に赤い染みがじんわりと広がっていく。
襲い掛かった右手の爪が、猛獣のように鋭くそして長く伸びて深々と突き刺さっている。
それを見て姫は全てを理解した。
いち早くルヴォラムの右手に気付いたラクエルは、その身を投げ出し、姫を前方へ突き飛ばしその魔手から彼女を救ったのだ。
「ラクエル! 何故私をかばった!?」
姫はラクエルの側に跪く。そして不安そうに彼の顔を覗き込む。
「ラクエル……庇う位なら何故――」
「それこそ愚問です、姫」
ラクエルは苦痛を押しのけて笑みを浮べた。
ルヴォラムが事が巧く運んだら姫の身柄を自分に受け渡すという約束を破った事も、今となっては姫が無事だという事実にどうでも良くなっていた。
が、直ぐに苦しそうにゴホゴホと咳き込む。次いで大量に口から血を吐き出した。
ルヴォラムの攻撃はラクエルの急所を貫いていたのだった。
このままではラクエルが死んでしまう! どうすれば……。
姫は困ったように、縋るようにフォレストを見上げた。
が、フォレストは静かに首を左右に振っただけだった。
もはや回復魔法で治せる範囲を超えているのだろう。
「ラクエル、死ぬな……死なないでくれ。こんなのは嫌だ」
姫は服が血で汚れるのも構わずラクエルを恐る恐る抱きしめた。
「私は騎士でありながら…罪もない人達をこの手で殺めてしまった…これは、その報いなのでしょう。だから貴女が悔いる必要は微塵もないのです。姫……」
実はラクエルはルヴォラムが不要になった奴隷達の処理を任されていた。
処理……つまり殺していたのだ。
「嫌だ……そなたが居なくなったら誰に剣の稽古をつけてもらえばいい? まだ教わってない事が沢山ある……だから――」
だから、死なないでくれ。
どんな些細な理由でも良いから何か話さないと今にもラクエルが死んでしまいそうで。
生暖かい液体が自分の手を濡らすのに気付いて、姫はその手に目をやる。
「あぁ……」
傷口を抑えても次から次へ、ラクエルの生命を奪うように鮮血は溢れてくる。
「私は…貴女の、ことが……」
言いかけてラクエルは口を噤む。
死ぬと解りきっている相手に好きだと告白されたら、この姫はきっと一生悔いて悩むに違いない。
だから、ラクエルは自分のこの想いごと逝くことに決めた。
そしてフォレストを見つめてこう言った。
「姫を…どうか幸せに……」
息をする事さえままならないのだろう。次第にラクエルの言葉は途切れがちになっていく。
「ええ、必ず」
フォレストは力強く頷いた。
彼も自分と同じく姫を想い、その幸せを願う存在だったのだとフォレストは確信した。
もっとも薄々は感づいていたのだが。
「姫……貴女に…会え、て…幸せで、した……」
それが彼が発した最後の言葉となった。
力の抜けたラクエルの亡骸が姫とフォレストにずしりとのしかかる。
フォレストはそっとラクエルの体を横たえてやった。
瞳を閉じたまま、ぴくりとも動かないラクエルを目の前にして、姫自身も時が止まったかのようにじっとしたままでいる。
「ラクエル…?」
無意識に姫の口から発せられた声は震えていた。
次いで硝子のような瞳から静かに涙が滑り落ちていく。
「ふん、役立たずめが…」
「「ルヴォラム!!」」
彼の言動に怒り心頭に達したフォレストとオルファードの声が重なった。
自分の背後で二人の魔術師がルヴォラムに止めを刺す魔法を放ち爆音が響いたが、ほとんど耳に入らなかった。
姫はラクエルを見つめ、涙を流したまま微動だにしない。
どうしてラクエルが死ななければならない?
……どうして?
どうして?
どうして――!!
ただ一つの疑問だけが姫の脳内を占領する。
一方でルヴォラムは床に伏していた。かろうじて今は虫の息と言ったところか。
無理も無い。同時に二つの魔法を喰らったのだ。
黒い霧のようなものがルヴォラムの体から立ち上り、消失した。それと同時にルヴォラムは本来の自分の姿に戻っていた。
王はルヴォラムの方へ歩み寄り腰を落とす。
「この、莫迦が……」
王は慈愛に満ちた瞳をルヴォラムに向けながら、震える声でそう言った。
そして長年連れ添った相棒の頭を優しく撫でる。
「その莫迦に、情けをかけようとしたのは他でもない、陛下ではないですか」
話すのも辛いのだろう。ルヴォラムは苦痛に顔を歪めながら答えた。
「お前はとても優秀な大臣だったぞ」
「ふん…それは、嫌味…か」
「辛いのだろう。もう何も言わなくて良い」
全くこの男は最後まで憎み切らせてもくれないというのか。
ずっとお前の背中を見てきた。追っていた。
いつかお前の存在を超える為に。
ずっとお前に憧れて、それに見合う努力もしてきたつもりだった。だが、ふと気付けばいつもお前は一歩先へ行っている。
その事が積み重なって追いつけない事の苛立ちが、お前に対する憧れから憎しみへと形を歪めて大きくなっていった。
そう、今なら解る。私はずっと歪んだ妄執に捕われていたのだ。
その事が魔族につけいる隙を与えてこの様だ。
そしてこんな私にまで情けをかけようとするとは。
――最後の最後までお前を超える事は出来なかったな。
お前は……本当に王に相応しい――――。
「私は…お前、に…なり、たかっ……」
「ルヴォラム……」
廃墟のようにあちこち酷く損傷している神殿内に、静寂が訪れた。
大臣ルヴォラムと騎士団長ラクエルの死、という多大な犠牲と共に――――。