|
「茨の刻印」・31 |
それは幼い頃に感じたものと酷似している。
温かくて、大きくて、とても心安らぐものだ。出来ることならずっとこのまま微睡んでいたい。
なんだかお日様の匂いがする。
その心地良さをもっと味わいたくて頭を軽く擦りつける。
それは、自分の心音と重なるようにとくん、とくんと穏やかに脈打っていて。
……ん? なんだかこの感触は覚えがあるような…。
姫は眠いながらも、重い瞼をゆっくりと開いてみる。
眼前にあったのは柔らかな膨らみではなく服の上からもそうと解る男性のそれで。
半分閉じかけた瞳は未だ眠りから覚めやらぬが、無意識に眼前のそれを撫でるように触れる。
「くすぐったいですよ…」
笑い混じりの耳に心地の良い低い声がそう告げる。なんだろうと思い姫は声のした方へ顔を向けた。
そこには木漏れ日のような優しい笑顔を浮かべた自分の守り手の顔。海のように奥深い青い瞳が優しく見つめていた。
姫はぼうっとした表情のままフォレストを見ている。
どうして、フォレストがこんな近くに居るんだ…?
そうして徐々に意識が鮮明になってくると同時に、姫に焦りと不安と恥じらいの混ざり合った複雑な表情が浮かんでくる。
うう…そうだった、昨日はフォレストと一緒に寝たんだ。
しかし今のこの状況はなんだというのか。必要以上に密着しているではないか。
しかもこの胸にすりすりしてしまったぞ……。
「うぅ〜…」
どう言葉を紡げば良いのか解らず姫は困ったように唸り声を上げる。
さりげなく離れようと少しずつフォレストから体を引き離す。
「何逃げようとしてるんですか。擦り寄ってきたのはあなたの方ですよ。私を枕代わりにして、それはもう気持ち良さそうに熟睡してましたよ」
私も気持ち良かったんですけどね、と心の中でフォレストは呟く。
不満げに言うフォレストの言葉に一気に姫の頬が熱くなる。
「い、言うなっ!!」
力いっぱいフォレストを押しのけて離れた…つもりだったのだが。
そこはいつものように慣れた手つきでフォレストに遮られる。姫は再び彼の胸に顔を埋める体勢になった。
「ひとつ良い事を教えてあげましょうか。…逃げようとするから捕まえたくなるんです」
したり顔でフォレストはそう告げた。
「そんなことどうでもいい! とにかく放せ!」
しかしフォレストの言葉などお構いなしで姫はいかにしてその腕から逃れるか必死であった。
一刻も早くこのいたたまれない状況から逃れたかったのだ。
何故私が朝っぱらからこんな恥ずかしい思いを味わわされなければならないんだ!
こんなことなら強引に床ででも眠れば良かった。
「そんなにはしゃいで朝から元気ですね〜」
「はしゃいでないっ!」
暢気に笑いながら言うフォレストに姫は激しく反論する。
全く何をどう変換すればはしゃいでいるように見えるんだ。本気で嫌がってるのが解らないのか!?
いや…解ってて敢えてそうしているに違いない……質が悪い。
「フォレストは意地悪だ……」
頬を薔薇色に染めたまま、未だ整わぬ息で姫は賢者を睨みつける。
しかしフォレストはまったく動じない。寧ろ彼にとってそれは逆効果でしかなく。精一杯虚勢を張る腕の中の少女を余計に愛しく感じる。
「そういうあなたは強情ですね」
言いながらフォレストは腕の力を緩めてやる。姫はやっと解放されたと安堵の息を漏らした。
姫とフォレストの二人が朝食の準備を整えて、昨日担ぎこまれた少女の部屋へ訪れると彼女は既に起きて、ベッドに静かに腰掛けていた。
「もう起きても大丈夫なのか?」
黒縁の眼鏡に紫銀の髪をゆるい三つ編みにした地味な衣装に身を包んだ少女――に変装した姫が尋ねた。
「はい。一晩寝たらだいぶ楽になりました」
傷だらけではあったが少女には昨日より活気があるのが姫には解る。
「ではサリカ殿、一緒に朝食をとろう」
黒縁の眼鏡の奥の菫色の瞳が少女――サリカに優しく微笑みかける。
サリカはかろうじて笑顔だと判別できるほどの表情を口元に浮かべ、こくりと頷いた。
食卓にはどの家庭でも普通にみられる物が並んでいる。湯気を立ち昇らせている出来立ての目玉焼きに香ばしいパン、瑞々しい野菜サラダにミルク。
眼前の黒縁の眼鏡の少女と、連れの青年が食事に手をつけるのを待ってからサリカも食べ始める。
昨日のこともあってか何気ない食事ではあるが、飢えていた体にはことさらに美味しく感じた。
そうして、サリカは今更ながらに気付いた。この二人組みはとても綺麗だと。
黒縁眼鏡の少女の方は眼鏡を取って、それなりに良い服を着ればさぞ見違えることだろう。自分の主以上に。そして青年の方も目が覚めるような美形っぷりだ。さながら物語の中から王子様でも飛び出してきたようだ。二人の物腰にはどことなく品があるようにサリカには思えた。
「ところで、その服から察するにサリカさんは良いとこの侍女などなさっているのですか?」
フォレストがさりげなくそう尋ねると、サリカは頷く。
「私はルヴォラム様のお嬢様に仕えさせていただいております」
「なるほど、どうりで侍女にしては品があると思いました」
にっこりと優しい笑みでサリカに笑いかけるフォレスト。解っているのに敢えて尋ねたのは自分の記憶違いが無いか確かめる為であった。
「そんなことありません。…只でさえこんな傷だらけですのに……」
サリカは謙遜した。実際服はよれよれのボロボロであるし、体は傷だらけだった。
「傷があっても無くても内からにじみ出る本人の品格に代わりはありません。貴女はとても芯の強い方だと私は思っているのですが」
「フォレスト様は口が上手いのですね」
サリカは微笑する。ここへ来て初めて見せる笑みだった。
「それに結構意地悪だぞ」
ここぞとばかりに姫は皮肉っぽくそう言った。
「そんな心にも無い冗談を言って嫌ですねぇ。いつ私が意地悪したというんですか」
何食わぬ顔でフォレストは返答する。
「いつも私が嫌がるのになかなか放そうとしないではないかっ!」
フォレストめ、すっとぼけるつもりか!
「そんな身に覚えの無い事を言われても困りますね〜。さては私とサリカさんが仲良く話してるのを見て嫉妬してるんですね?」
くすりと、姫の反応を楽しむようにフォレストは微笑む。
「誰が嫉妬などするものか!」
いかん、このままではフォレストのペースに巻き込まれてしまう。
何でこんなに口が達者なんだ。
「薄情ですねぇ。少しくらい妬いてくれても罰はあたりませんよ?」
「薄情ではない。妬く理由が無いからな」
その時くすくすと少女の笑い声が聞こえてきた。見るとサリカが笑っていた。
「お二人はとても仲がよろしいのですね。恋人同士ですか?」
にっこり微笑んで尋ねるサリカに。
姫とフォレストの二人は同時にまったく対の言葉を刻む。
「ちがう!」
「そうです」
一瞬の静寂の後、先に口を開いたのはフォレストだった。
「どうしてそんな嘘をつくんですか、ティア?」
フォレストは明らかに不機嫌そうな様子で、姫を見つめる青い瞳が冷気を纏っている。
その瞳にびくびくしながらも姫は反論する。
「それはフォレストの方だろうっ。私達の関係は守り手と……」
姫。と言いかけて慌てて姫は言葉を飲み込んだ。
やばいやばい、今は誰にも正体をバラす訳にはいかないのだった。
姫は思わず冷や汗をかいた。
「お嬢様、ですよね。ティア。でも私は誰よりもあなたの事を想っていますよ」
フォレストの一言に姫の頬がぱあっと薔薇色に染め上がる。
「ば、ば、ば、莫迦者! 人前でそんな恥ずかしい事を言うなーっ!!」
姫は勢い良く机に両手を置き椅子から立ちあがる。その反動で椅子が床に転がった。
「あーあーもうしょうがないですねぇ。これ位で椅子倒しちゃうなんて」
言いながら嬉しそうにフォレストは転がった椅子を元の位置に戻す。
「す、すまん…」
困ったように姫がそう言った。
そんな姫を見てフォレストはこう返事した。
「ですから、いつも言ってるじゃないですか。言葉で言うよりちゅ…ふががが」
「わーっ! 莫迦者ッ!!」
姫は顔から湯気を立ち昇らせるような勢いで真っ赤になり、尋常ではない速さでフォレストの口を両手で塞いだ。
全く、何て事を言おうとしてくれるのだ。
そうして、そんな二人の様子を呆れたように見ていたサリカは心の中でこう思った。
なんだかんだ言ってこの人達……バカップル…。
でも、悪い人じゃなさそうだし良かった。
「ああ、そうだ。危うく忘れるところでした。サリカさん、その服はいくらなんでもあんまりでしょう。服なら沢山ありますから好きなの選んで着てください」
言われてサリカは改めて自分の衣服に目を向ける。フォレストの言うとおり、あちこちほつれたり布が破れたりしていた。
「ありがとうございます。では早速服を選ばせていただいても宜しいでしょうか?」
「ええ、勿論」
そう言ってフォレストは立ち上がる。ついで姫とサリカも立ち上がりフォレストの部屋へ移動する。
室内に入ると、フォレストは部屋の窓際においてある大きい袋二つを指して言った。
「この中に服が入ってますから気に入った物があれば遠慮せずに使ってください」
「ありがとうございます、フォレスト様」
「礼には及びませんよ。困った時はお互い様です」
サリカの言葉にフォレストはにっこり微笑んでみせた。
「では、私とティアは外に出てますので着替え終わったら呼んで下さい」
「わかりました」
「では、また後で」
そういうと、フォレストとティアはその場から立ち去った。
部屋から出て少し言った所で姫がフォレストにぽつりと言った。
「フォレスト、昨日の鼻眼鏡やらアフロやらはどうするのだ?」
「ご心配には及びません。ヤバそうなのは全部隠しておきましたから」
「そうか、なら良かった」
姫は安堵の笑みを浮かべた。
「変態だと思われなくて済むな…うん」
「どういう意味ですか、それは」
フォレストは苦笑する。さらりと揺れる銀色の髪が陽の光に透けて淡く輝く。
「つまりフォレストが変…」
次の言葉を紡げなかったのは、フォレストが姫の顎に手をかけ上向かせたからだ。
フォレストと真っ向から視線が絡み合い、姫はどきりとした。
「な、なんだ? フォレスト…」
沈黙が怖くて思わず口をついて出た言葉。
「私のことを変態だとかいうその口を塞いで差し上げたい衝動にかられまして」
フォレストはにやりと笑った。
「そんな物騒な考えは捨ててくれて結構」
姫は内心気が気でなくはらはらしながら、フォレストの手を払いのけた。
と、そこへ運良く扉が開く音がしてサリカが姿を現した。
「サリカ殿」
姫はほっとして彼女の名を呼んだ。
「何から何まで親切にしていただいてありがとうございます」
サリカは一礼する。水色の簡素なワンピースを身につけている。それが返って彼女の清楚さを引き立たせていた。
「それで、あの…これはどういたしましょう?」
手にしたボロボロの侍女の制服を両手に持ったままサリカは問うた。
「ああ、こちらで処分いたしますから平気ですよ」
言いながらフォレストはサリカからボロボロの侍女服を受け取る。
「それにしても、こっぴどくやられたもんですねぇ」
フォレストの言葉にサリカは困ったような悲しい笑みを浮かべた。
「…本当はこのような事をなさる方ではなかったのに……」
「私達で良ければ話をお聞きしますよ。誰かに聞いてもらうだけで心が楽になることもありますから」
フォレストは慈愛に満ちた瞳をサリカに向けた。
そして、サリカは今更ながらやっと気付いた。どこか聞き覚えのあったフォレストという名前。銀の髪に青い瞳、そして青を好んで着るという……。
「もしかして…『蒼の賢者』さま…?」
するとフォレストはにっこりと微笑んで言った。
「そんな名前で呼ばれることもありますね」
蒼の賢者――その言葉に今まで頑なに守っていた壁が崩れ落ちていくのがサリカの中ではっきりと感じられた。
この人達なら、お嬢様を救ってくださるかもしれない……!
サリカは僅かな希望を胸に、自分が知っている事全てを話す決心をしたのだった。
「私はルヴォラム様のお屋敷でルヴォラム様のお嬢様アリーシャ様にお仕えしておりました」
アリーシャは勝気で自信家、歯に絹着せぬ物言いとやや高すぎるプライドを併せ持った少女だった。年の頃は自分、あるいは目の前の黒縁眼鏡をかけている少女と同じ位。今年で十八になるはずだ。
サリカは物心着いた頃からこのやや傲慢なお嬢様、アリーシャに仕えていた。いわば長年の親友みたいな存在でもあった。行動や言動が行き過ぎるアリーシャを落ち着いたサリカが上手く宥めるような、バランスの取れた関係であった。アリーシャ自身もそんな自分を制してくれるサリカに感謝していたようだ。
母を早くに亡くし男手一つと侍女達に育てられたアリーシャは結構我侭な性格になってしまっていた。
今までのアリーシャはそんな感じで周囲から見れば、ちょっとお高くとまった嫌味なお嬢様だった。
「ですが、最近…ここひと月の間にお嬢様は徐々におかしくなってしまわれたのです」
サリカは膝の上で握りこぶしを作り俯く。
姫とフォレスト、サリカの三人は朝食を片付け終わった食卓代わりの机を挟んで向かい合うように座っている。
「おかしくなった、とはどのように?」
姫がサリカに尋ねると、少し逡巡した後こう答えた。
「人を……傷つける事を楽しむようになってしまいました……」
思わず相手を傷つけるような発言をしてしまう事はあっても、体を傷つけるような事は今まで一度もしたことが無かったというのに。
サリカには何故アリーシャが変わってしまったのか、それを止める事が出来なかったのかが悔やまれてならなかった。
「それは穏やかではありませんね…貴女自身も同じ目にあったという訳ですか」
フォレストの言葉にサリカは頷く。
「私だけなら、まだ良かったのですが……」
「サリカ殿以外にもそのような目にあっている者が居るのか…」
姫の言葉にサリカは頷いて言った。
「あそこに仕えていた侍女達は私以外居なくなってしまいました。…お嬢様の行為に耐えかねて辞めていった子達がほとんどですが。でも…それだけじゃないんです」
サリカがいつものように全ての仕事を終えて眠りにつこうとしていた時だった。
少し離れたところから人の呻き声の様なものが聞こえてきて。始めは気にもとめていなかったのだけれど。その声がいつまでたってもやむことが無く。
サリカは、その呻き声がする部屋の前までやってきた。ほんの少し扉は開いていた。
ここまで来て引き返すのもなんだしサリカはそっと隙間から中を覗いてみた。
部屋の中にはアリーシャと、この国の者ではない肌の色をした者達が居て鞭打たれていたのだった。
「ここまでお話すれば予想もつくかと思います…多分彼らはど…」
「いけません!」
サリカが続きを発言しようとした時、何かを感じ取ったらしいフォレストが即座に彼女の口を片手で塞いだ。
その場は一瞬にして緊張に包まれる。
「フォレスト!?」
姫はフォレストの予想外の行為に動揺する。それはサリカとて同じだ。
「サリカさん少しの間黙っていてくださいね。どうやら貴女は呪いをかけられているようです」
サリカは背筋の凍る事実に驚愕する。
「大丈夫です。解いて差し上げますから」
そう言う間にもフォレストの指先は複雑な印を組み、魔力の軌跡が宙に残されていく。
それと共にサリカの額に黒い文字とも文様ともとれる物が浮かび上がってきた。
フォレストはそれに人差し指と中指を当てる。
「至高神エルディアの名においてフォレストが命ずる。呪いよ退け!」
その瞬間バシュッ!という、圧縮した空気を一気に解放したような音と共にサリカの額から黒い煙が立ち昇っていった。
「はい、これでもう平気ですよ」
フォレストはいつもの微笑を浮かべる。
「…すごいな」
姫は思わず感嘆の言葉を漏らす。
一般的に解呪はとても高度だと言われている。何故なら呪いをかけること事態高度な呪術だからだ。よほど高位の者でない限り扱うことすら難しい物なのである。
そしてそれを解呪するのは更に難しいと言われている。
何故なら、呪いをかけた者より上の魔力を持っていなければ出来ないからだ。
「何を今更。伊達に賢者をやっているわけじゃありませんよ」
フォレストはくすりと笑う。
「さて本題に戻りましょうか。サリカさん続きをどうぞ。彼らはの後は何です?」
「あっ、はい! おそらく…奴隷ではないだろうかと――」
「なっ! 奴隷だと!? それは明らかに法律違反になるな…」
「なるほど。その事が漏れるのを恐れて口封じを兼ねて呪いをかけたというわけですね」
「酷いな…人の命を何だと思っているんだ…!」
フォレストの言葉に姫は怒りの意を顕わにする。
「同感です。それにこの事は少なからず今回の謀反騒ぎに繋がっているかもしれませんね。あくまで私の勘ですが」
「そうか…」
アリーシャとルヴォラム。この二人は私の事を毛嫌いしていた。何故かは解らないけれど。
「あの…こんな事私などが頼めた義理ではないのですが…どうかお嬢様を救って差し上げてくださいませんか?」
悲痛な表情でサリカは二人に懇願した。彼女にとってはどんなに酷い仕打ちを受けようと、アリーシャは主であり付き合いの長い親友なのだ。
「貴女は優しい方ですね。私達も出来る限りの事は致しましょう」
笑顔で答える賢者に、サリカは深く一礼した。
「ありがとう…ございます」