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「茨の刻印」・18




 開かれた菫色の瞳は、すぐには視点が定まらず、少しの間宙をさまよう。
「…フォレスト?」
 不思議そうに彼の腕の中の少女はその澄んだ瞳でフォレストを見つめる。
「よく、耐えましたね。随分苦しい思いをしたのでしょう?」
 フォレストは慈しむように姫の頭をゆっくりと撫でる。
「夢を、見ていた…昔の…」
 そこで漸く辺りの空気が冷たい事を姫は認識する。
 何て寒さだ。お陰で今やらなくてはならない事を思い出した。
 聖杯を手に入れなくてはならない。
 姫は意識を失う事で、すっかり冷め切った体を心の中で叱咤しながら、フェンリルを見据える。
「氷雪の精霊王フェンリル…どうか私達に聖杯を貸して欲しい」
 フェンリルは姫に向かって穏やかに告げる。
「そなた達は、見事我が試練を乗り越えた。よって、我にはそなたの頼みを断る理由はない」
 その言葉と共にフェンリルは空気に溶け込むように消えていき。
「聖杯は、そなた達に渡そう」
 彼の足元にあったはずの聖杯は、その形を、小さくとても薄い円盤に変えていた。
 姫はそれを取ろうと立ち上がろうとした、が。
 フォレストの強い腕によって阻まれる。
「姫はここでお待ちください。精神的にも肉体的にも疲れてますからね」
「わかった」
 彼の言うとおり、今はまだ体が重い。
 フォレストは前方にある金色の円盤を拾い、姫のもとへ戻る。そして、それを手渡す。
「これは、なんだろう? 何か文字が書いてあるけど…」
 円盤の表面には、古代文字のような、装飾的な美しい文字が描かれている。
 しかし、姫には見たことも無い物なので解読出来ない。
「『聖なる力を必要とする時、我を天へ捧げよ。さすれば、天上の門開かれん』」
「え…」
 あっさり解読するフォレストに、姫は呆気にとられた。
「と、上位古代語で書いてあります。おそらく、これが聖杯のある場所へ行く為の鍵なのでしょう」
 上位古代語…ハイ・エンシェントと呼ばれる言語は、現在そのほとんどが失われ、大変解読が難しいと言われている物である。 
「他にめぼしい物もありませんし、祭壇の方へ行ってみましょうか」
「うむ」
「立てますか? なんなら抱っこして差し上げますが」
「要らぬ…」
 全くもう。また私をからかおうとして。
 とりあえず、祭壇の前まで移動する。
「これはまた、何とも解り易いですね。ここにしか、はめこむ所ないですし」
 そう言って、フォレストは祭壇の壁を指差した。
 そこには地上に横向きに膝を付いて、上に両手を掲げている人物が左右に描かれ、上の部分に雲が描かれている。そして、壁画の上空の中心部に、円盤が丁度はまりそうなスペースがある。
「じゃあ、はめるぞ」
「どうぞ」
 姫は丁寧に、小さな金色の円盤をはめ込む。
 すると次の瞬間、その円盤を中心に、辺りに眩い光が放射状に広がった。
 眩さに思わず腕で顔面を覆うと、えも言われぬ浮遊感が感じられた。
「…っ」
 どうなっているのか確かめようと、瞳を開けようとするが、強烈すぎて、とても開けられたものではない。
 そうして。暫くの間、奇妙な浮遊感に包まれた後、足が地の感触を感じ取る。どうやら着いたらしい。
 そっと瞳を開けると。
 眼前にはどこまでも続く青い空と、目の前をゆったりと横切っていく真っ白な雲。
 掴もうと思えば雲を掴める位置に居る。
「ここは…もしかして空の上か?」
「そうみたいですねぇ」
 驚きを隠せない姫に、賢者はいつもと変わらぬ様子で答える。
 そして、二人の前には、羽の彫刻を施した、白い門がそびえ立っている。
「アレ、くぐっちゃいましょう」
 フォレストは姫の手を引き、白い門を通り抜けた。
 その先には小さな庭園のような物があり、最奥に泉が湧き出ている。
 何故かここの空気はとても透き通っているように感じられる。
 泉の前には、清楚な白い服に身を包んだ、白く長い髪の女性が立っている。
 女性の所まで来ると、彼女はこう告げた。
「お待ちしておりました。フェンリルから話は全て聞いています」
 姫は、ふと気付いた。
 どこかで感じた事のある気配。そうだ、彼女からは円盤と同じ気配がする。
 側に居るだけで、清められるような…。しかし、それは円盤の比ではない。
「…あの金の円盤と同じ感じがする…」
 姫の言葉に動じる様子も無く、女性は言った。
「あれは、私の一部」
「え?」
 きょとんとする姫に彼女は、決定的な一言を告げる。

「私が、聖杯です」

「なっ!?」
「おや、珍しいですね」
 聖杯が意思を持つという事は聞いていましたが、まさか人型を取っているとは。
 今なら自分にも感じ取れる。人外にしか持ち得ない強烈な聖なる波動…。
「行き先は、聖なる湖で良いのですね?」
「ええ」
 聖杯そのものだという清楚な女性に、フォレストが頷く。
 姫はその女性が聖杯だとは、信じ難く、返事をするのが遅れた。
「今から、移動します。私の手を取ってください」
 姫と賢者の二人は、言われたとおりに女性の手を取る。
 いつの間に出来たのか、水の球体に三人は包まれている。
 そのまま、それは浮遊しながら泉の方へ行き、その中へ沈んでいく。
 ゆらゆらと水中を一片の花びらのように漂う。流麗で軽やかなその動きは、全く揺れる事の不快さを感じさせない。
 時折、湧き上がってくる泡が宝石のように煌いて幻想的な雰囲気を醸し出している。
 暫くそうしていると、前方に眩い光が見えてきた。
「もう少しで着きます」
 特に感情の篭らぬ、抑揚の無い声で、聖杯である女性は告げた。
 数秒後、光の中へ入り。
 気がつけば、眼前に広大な窪地が広がっていた。
 それは此処が、元聖なる湖があったとは到底思えないような物で。
 大地は完全に水分を失い、乾燥して所々にヒビが入っている。湖であった所のみ、雪さえ積もっていない。
 草木もやせ衰え、枯れ果てているものも少なくない。死の大地、という言葉がしっくりくるような…それほどに荒廃していた。
「これは酷い荒れ様ですね…以前こちらへ来た時とは天地の差があります」
 眼前に広がる光景に、フォレストは神妙な面持ちで言う。
「そうか…。それにしても、ここまで荒れているとは」
 以前の様子を知らない自分でも、この有様は酷すぎると解る。
 ここからは何も感じない。聖杯のように聖なる波動が微塵も感じられない。
 本当にここが聖なる湖だったなんて、今いち実感が沸かないな…。
「あの…」
 姫は聖杯である女性に話しかけようと声をかけたは良いが、名前が無いのでどうにも呼び辛いことに気付く。
「私の事はウィータと呼んでください」
 姫の心を察するように、女性の成りをした聖杯は告げる。
 長い間、崇め祭られ、幾多の人々の願いを受け、意思を持つまでになった聖杯である。人の心を読む事など造作もないのだろう。
「では、ウィータ殿。湖を復活させるには、どうすれば良いのだ?」
 ウィータは姫を真っ直ぐに見つめる。あまりにも曇りが無く澄んでいて無垢なそれは、畏怖の念すら抱かせられる。
「祈りを…私と共にこの地へ捧げてください」
「わかった」
 言われるままに、姫とフォレストは胸の前で腕を組み、巨大な窪地を見つめながら、心の中で願いを込める。
 ウィータは大気を集めるように斜め上へ両手を掲げる。
 彼女の目線より少し高い位置で、流れるような動きで、その場にちらついていた雪が集まっていく。それらは緩やかな弧を描きながら、大きな窪みへと入っていく。
 みるみるうちに、聖なる湖であった場所に、大気と雪の渦が出来上がっていく。それは湖底に向かって渦をなし、物凄い速度に達する。
 あまりの勢いに風花が狂乱していく。激しさを増し、嵐のように轟々と唸りを上げる。
 こんな凄まじい渦に引きずり込まれたら、一溜まりも無いな…。
 祈りを捧げながら、姫は、目の前の光景に少し背筋が冷える思いがした。
「あっ!」
 湖底に水が溜まりはじめてきたのを見て、姫は思わず声を漏らす。
「これ程早く水に変化するとは…祈りの力だけでなく、刻印の魔力の影響か…」
 ウィータは相変わらず、感情の篭らぬ声と表情で言い放つ。
「見事に共鳴してますね、姫」
「え?」
「気付いて無かったんですか? 聖杯の力と姫の魔力が共鳴しあってるんです。その証拠にほら、姫の魔力が溢れて渦と混ざり合ってます」
 湖底ばかりに集中して見ていたせいで、いまいち気付くのが遅れたが、渦の外側に目をやると、薄紅水晶色の煌きが混ざり合っている。
 ウィータ同様、姫も淡い魔力の輝きに包まれている。
 貴方のその眩いばかりの魔力の煌きは、貴方の心の美しさなのでしょう。
「本当に、姫は見ていて飽きませんね」
 フォレストは姫に微笑みかけた。
「何だそれは、私を莫迦にしているのか?」
「褒めているのですよ。相変わらず姫は可愛いなぁと」
「ばっ、ばか者! こんな時にまで何を言っているっ。真面目にしろ!」
 照れ隠しなのか、姫は賢者から勢い良く顔を逸らし湖底を見つめる。長い紫銀の髪がふわりと宙に舞った。
 フォレストは、くすくす笑いながら少しの間姫を見つめた後、再び祈りを捧げる。
 そうして、ほんの十数分位だろうか。徐々に渦の勢いが弱まっていき…。
 湖は以前の姿を取り戻したのだった。波一つ立たない静かな湖面はまるで鏡のように澄み渡っている。
 そして、そこから感じられる清々しくも神秘に満ちた力。そこには生きた湖が確かに存在している。
 聖なる湖が元に戻った影響からか、それまで枯れていた木々までもが以前の瑞々しさを取り戻していた。
「凄い浄化能力だな…」
 それにしても、何という穢れの無い透き通った魔力なのだ。
 湖の気に触れているだけで、自分まで浄化されるような…。
 なるほど、これなら下位魔族など物の数にも入らないわけだな。
「私の役目はこれで終わりました。また眠りにつきます」
 引き止める間もなく、金色の軌跡だけを残してウィータはその場から消えた。
「ありがとう」
 姫は、天へむかって礼を述べた。
「さてと、それじゃ、お城に戻りますか。姫が凍死しない内に」
「神殿じゃなくて、城に戻るのか?」
「ここからだとお城が一番近いですしね。神殿へは法王に頼んで、その旨お伝えするようにしてもらいましょう」
「うむ」
 言いながら寒さのあまり身震いをする姫。
 今更ながら、ひしひしと寒さを改めて痛感する。思わず目じりが薄く潤む。
 怖ろしく寒いな…。
「フォレスト、城までどれくらいかかるのだ?」
「十分もあれば着きますよ」
「そうか…」
 十分。あと十分我慢すれば温かい部屋に戻れる。
 しかし…十分は、意外に長い。今すぐ暖炉にあたりたいぞ…。
「ああ、ですが。私が姫を抱っこして走ったら五分程度で着きますよ?」
 フォレストはにっこりと微笑んだ。
「いら…っくしゅ!」
 要らぬ、と答えようとして姫は思わずくしゃみをしてしまった。
「はい、決定」
 有無を言わさず、フォレストは姫を抱きかかえる。
「うわっ! ばか、恥ずかしいから、やめろ」
「大丈夫ですよ。人目が気になるんでしたら、今私達は透明になる指輪をつけてますから」
 言いながら既に走り出している。
「そういう問題ではない」
 姫は頬を染めながら、軽くフォレストを睨んだ。
「では、どういう問題なのですか?」
「その…こんな、如何にも守られてます的な扱いは、恥ずかしいというか…」
「私が抱っこしたくても、駄目ですか?」
「は? …ひゃっ!?」
「ちゃんと掴まってないと落ちますよ」
 フォレストが段差を飛び越えた時に、しっかり掴まっていなかった姫は、危うく落ちそうになった。
慌ててフォレストの首に腕を回し、しがみつく。
「何故、貴殿はそんなに抱っこしたがるのだ? 私には理解できない」
「おや、抱き心地が良いものを抱くのに、理由がいるのですか?」
フォレストはくすりと笑う。
「抱き心地…私は、ヌイグルミでも犬猫でもないぞ?」
「そんなもの比にならない位、私にとって姫は抱き心地が良いのですよ。あんまり軽いんで時々飛んで行ってしまいそうで、不安にもなりますが」
「飛んで行くわけないだろう。紙じゃあるまいし」
「そうですね。貴方は確かに今、私の腕の中に居る…」
 氷雪の祠で、目を閉ざしたまま動かなかった姫が脳裏によみがえり、フォレストは少し切なくなった。
 そうして、走ること数分。二人は無事、ヴァル・アルザースの城に着いたのだった。
 姿が見えなくなる指輪を外してから城門をくぐる。
 もちろん、姫はフォレストから降りて歩いている。無論、フォレストが中々放してくれなかったので、強引に離れたのである。
 それから、二人は法王の元へ向い、事の顛末を軽く説明し、体を休ませてもらうことにした。

 姫は通された部屋に入ると、ベッドの上に倒れこんだ。
 フォレストの前ではそのような態度はおくびにも出さなかったが、実は、氷雪の祠で目覚めた時から、とても疲れていて一刻も早く横になりたかったのだ。
 柔らかなベッドの上はとても居心地が良くて…。
 姫が心地良い夢の世界へと旅立つのに、数分もかからなかった。



TO BE CONTINUED...
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