「そなた達は、我の試練を乗り越える事が出来るだろうか…?」
雪の上にうつ伏せに倒れている二人の人間を見てフェンリルはそう言った。
今日まで、ここへ来た者達は皆、嘆きの精霊アリエスタに触れられ、耐えられず目を覚ます気配がまるでなく。
それ故に、精神が壊れる前に、ここでの出来事を記憶の中から取り除き神殿へ飛ばした。
* * *
風邪でもないのに、酷く頭ががんがんする。少し熱もあるみたいだ…。
姫はふらふらと、自室のベッドに崩れるように仰向けになる。
騎士団に入り浸り過ぎたのだろうか。しかし自分の身は自分で守れるくらいには、剣を使える様になっていなくては、いざという時困るのは私だ。
それに、姉様は他国へ嫁いで、後継者は私だけになってしまった。
だから私はもっと強く、しっかりしなければいけないのだ。
…それにしても、この頭の鈍い痛みはどうにかならないものか。
などと考えているうちに、姫は眠りに落ちていった。
再び目覚めると朝になっていて。
朝食をとる為に、顔を洗い、服を着替えて、父と母の待つ部屋へ歩みを進める。
部屋へ入ると、窓からいっぱいに朝日が差し込み、室内を明るく爽やかな雰囲気にしている。
「父様、母様。おはようございます」
「おはよう、ティナローザ」
王と王妃は自分の愛娘に優しく微笑みかける。
机の上には、スープに焼きたてのパン、野菜たっぷりのサラダ、果実類、そして紅茶が並んでいる。
「あ、今日は珍しい果物があるんだな」
「ええ、シャルキーヤから送ってこられたのよ」
姫の言葉に王妃が答える。
「向うでは、もうネレディの収穫時期なのねぇ」
ネレディはシャルキーヤでしか採れない、希少な柑橘類である。あまりにも数が少なく、高価である為、まず一般の食卓には並ばない果物だ。
さっそく姫はネレディを手に取り、皮をむく。
山吹色の皮をむくと、中から赤みがかった果実が姿を現す。みずみずしく、程よい弾力があり、甘みのある爽やかな香りが広がった。
口に含むと甘い果汁が口内を満たす。
「おいしい」
姫は思わず笑顔になる。
その様子を見ていた、王と王妃はとても幸せそうに微笑みあった。
元々自分の娘達を溺愛していた彼らだが、上の姉が他国へ嫁ぐと、姫への溺愛度は更に深まっていき、本当に目に入れても痛くないほど愛情を注いでいた。
姫がいつも笑顔で元気でいる事は彼らにとって、この上ない幸せなのだ。
そうして、和やかな一家団らんの時が続くはずだった。
それを破ったのは、超音波のような激しい金属のような甲高い音。
どこからともなく、姫の脳裏にのみ、その耳をつんざくような音はこだまする。
「ティナローザ、どうしたのだ!?」
突然、頭を抱え込み苦悶の表情を浮かべる姫に、王は狼狽る。
キイィィィィィィィン!
キイィィィィィィィン!
その無機質な音は、どんどん大きくなり激しさを増していく。頭の中が大狂乱で意識を保っているのが困難になってくる。
「音、が…」
姫は、かろうじて、それだけ口にすると床に崩れ落ちた。
「ティナローザ! ティナローザ!」
王と王妃は慌てて姫を抱きかかえ、その名を叫んだ。
次に姫が目覚めた時、既に三日が経っていた。
「……」
姫は視線だけ動かして周囲を見回すと、左のほうに誰か控えてるのが解った。
侍女のリアフと、服装から察するに魔術師の位の高い者だろう。
リアフは心配そうに姫に話しかける。
「姫様、気分はどうですか? まだ、どこか痛い所はございませんか?」
「ああ…大丈夫だ」
「お食事の時に、いきなり倒れてしまった時は心臓が止まるかと思いましたわ」
「心配かけたな、もう大丈夫だから。…ありがとう」
「姫様…」
侍女の目頭がかすかに潤んでいる。
「ずっと私につきっきりだったのだろう? リアフも少し休んだ方が良い」
「はい。ありがとうございます」
そう言って、リアフは目元を覆いながら部屋を後にした。
部屋には、姫と魔術師の二人だけが残される。
「姫様。少しお時間を頂けますかな?」
紅玉のブローチでマントをとめた中年の男性が言った。
魔術師達は、その階級に応じたブローチをギルドから支給される。
「紅玉程の魔術師が、私に話とは…?」
サンクリット大陸全土には魔術師ギルドという、魔術師専用の組織があり、それは全部で十の階級に位置づけられる。
紅玉の魔術師は、十ある階級のうち上から二番目に属する高位の魔法使いである。
「姫様の、ここ最近の不調の原因がはっきりと解りました」
「何が原因で…」
いぶかしむ姫に、魔術師は落ち着いた声で言う。
「瞼を閉じて、意識を集中してみてごらんなさい…」
姫は少し戸惑った風だったが、すぐに彼の言うとおりに目を瞑る。
暫く瞑想していると、自分の中に沸きあがってくる何かを感じ取れたような…気がした。
「…感じませんか? 自分の中に力があるのを…」
「よく、解らない…けど。…何か感じたような気はする…」
姫の言葉に、紅玉の魔術師は微かに笑みを浮かべる。
「詳しい事は、陛下がおこしになってから説明いたしましょう」
そして、数刻後。
「皆さん揃いましたね。では、話を始めます」
紅玉の魔術師は、落ち着いた声で言った。
室内には、王に王妃、高位の魔術師や司祭、侍女のリアフなど、姫に関わる中で重要な者達が彼女の部屋へ集められていた。
まだ、静養した方が良いという事で、姫だけは未だベッドの上である。
「これから申し上げる事は、歴史上稀有な事であり、喜ばしい事でもあります」
そう言って、紅玉の魔術師は誰もが解るように、魔力感知の呪文を唱えた。
するとその場に存在する、魔力を持つものが全て光に包まれた。
その中に。
並外れて、神々しく光る存在がある。その場に居る全員が、姫に注目する。
「皆さん、一度は目にした事があるかと存じます」
姫を除く全員が固唾を飲む。
「――――『茨の刻印』でございます」
軽いどよめきが辺りを包む。
「おお、何という事だ。かの有名な刻印が我が娘に宿ろうとは!」
王は感動のあまり姫を抱きしめる。
「父様…痛い」
「すまん、すまん。ティナローザ」
王は慌てて腕の力を緩めた。
―――――――これは、私が十四歳の時の…。
* * *
「何故お前だけが、のうのうと何食わぬ顔で生きて戻ってくる」
「あの時、お前がもう少し早く手を差し出せばセミノールは助かったのに」
イルアーナの国境付近に鳥形の魔族が大発生し、螺旋宮から派遣された者達のほか、フォレストと数十名の傭兵達もそこへ滞在していた。
「僕にも出来る事と出来ない事がある。一生懸命手を伸ばそうとしても、感覚が既に無くてあれが精一杯だったんだ」
フォレストは未だ出血の止まらない右腕を押さえながら言った。
しかし、その落ち着いた口調が、余計に傭兵達をいらつかせる。
「お前、天才魔術師だかなんだか知らんがなぁっ! お前のせいでセミノールはっ…」
フォレストの胸倉をつかみ上げ、しかし男は悔しさに言葉が詰まる。
男にも頭の中ではしっかり解っていた。自分の相棒が命を落としたのは、この少年のせいでない事くらい。
バランスを崩し、不幸にもその隙を突いて魔の鳥は相棒を頭から飲み込んだ。
実際、少年…フォレストは並外れた魔法と剣技で無駄なく、魔族を排除していた。
彼の手が届かないほど一瞬の隙を突かれてしまった。いや、自分達の方が年上なのに、ほとんどの戦力をこの少年に頼っている事自体、問題があるのは自分でも解っているのだ。
それでも。
自分の長年連れ添ってきた相棒が一瞬でこの世を去った事は認めたくなくて。
「うう…っ。セミ…ノ、ル…」
男はフォレストの胸倉をつかんだまま、その胸に頭を埋めて泣き崩れる。
「ネオラさん…」
フォレストはやるせない思いで、彼の名を呼ぶ事しか出来ない。
セミノールはいつも傭兵達の中で一番人懐こく、自分に話しかけてくれる人だった。
この右腕が千切れても、彼を助けたかった。
でも、どんなに精一杯伸ばしても腕は届かなくて。
目の前で魔族に飲み込まれたあの衝撃。忘れたくても忘れることなど出来ない。
心の中にぽっかりと穴が開いたようになった。
魔族が、戦が人を不幸にする。
僕はもっと頑張らなければ…。もっと強くなって、そして…。
「…っ」
フォレストの瞳から、透明な雫が零れ落ちた。
―――――これは、過去の記憶ですね。
確かに、辛くて絶望に苛まれて。でも、いつまでも、ここに留まっている訳にはいきません。
このまま絶望に囚われてしまったら、私は一番大切な人を失ってしまう…。
今度こそあの時の絶望を味わわないように。
私は…。
「む」
フェンリルの片耳がピクリと動いた。
前方に意識を集中させると。
二人組みの人間の内、男の方が意識を取り戻したようだった。
彼はむくりと起き上がり、隣で倒れている少女を見て瞬時に表情がこわばる。
「姫…っ」
慌てて華奢な少女を抱きかかえる。
桜色だった唇は、冷えのため薄紫色に変化している。同様に指先も氷のように冷え、爪も青紫に染まっている。
「その娘を、そなたが起こす事は、まかりならぬ」
「解って、います…」
フェンリルの言葉に、今すぐ姫を起こしたい衝動に耐えながら、賢者は声を絞り出すようにして言った。
「…姫にもしもの事があれば、相手が貴方であろうと…許しません」
それは地の底にまで響くような、暗く、深い声だった。
姫を抱きかかえて俯いているので、その表情までは、はっきりと掴めない。
「……」
フォレストは改めて姫の顔を見つめる。
まるで作り物のように、ぴくりとも動かない。いつもの薔薇色の頬もすっかり色素を失い、顔面も真っ青だ。
只でさえ、死ぬほど寒い所が苦手なのに…。
こんな、氷雪の祠でずっと気を失ったままだったら、死んでしまう。
姫の両手に触れると、氷のように冷たい。
フォレストは、これ以上冷えないように姫の両手をきつく握り締める。
もう片方の手で、頬に触れると柔らかさはそのままだったが、やはり冷たく。唇も冷え切っていて。
早く、戻ってきてください!
私の心は強く貴方を呼んでいます。
フォレストは力を込めて瞳を閉じ、姫を抱きかかえる手に力を込め、その目覚めを、強く、強く願った。
* * *
私はずっと、不安だった。
城の近くに沸く、魔族達を退治して回るのが自分の役目のように、なっていて。
それは構わないのだが。
皆が、私の額にある刻印の事に謝辞を述べてくるけれど。
…謝辞を、述べてくるだけで……。
誰も…誰も、私の本音を解ろうとは、してくれない。
これ程に、手に余るような莫大な魔力を宿してしまった事への、恐怖。
皆は口々にめでたい事だと言うけれど。何がめでたい物か。
つい、昨日だって、魔力を制御出来ずに城の城壁を傷つけてしまった。あんな事が簡単に出来るなんて、私は化け物と同じではないのか!?
いつの日か、この強大すぎる魔力に支配されてしまうのではないか。
「凄い魔力ですね! 素晴らしいです」
「姫様の魔力には期待してます!」
そんな言葉は欲しくない。もう沢山だ。皆の期待が大きければ大きいほど、私の心は不安に苛まれる。
謝辞の言葉をかけられる度、心が重く沈んでいく。
皆、私の魔力だけに注目して…。
「誰も私の事を見てくれる人はいない…」
虚しい言葉が、口をついて出た。
父様と母様だけは私の事を見ていてはくれるけど。だけど、こんな事を口にしたら、きっと非難するに決まっている…。
誰にも言えない…落胆する顔が目に浮かぶから。
「こんな刻印なんて、いらない…」
姫はそのまま瞳を閉じ両膝を抱えて俯く。
軽い眠気が瞼を襲う。
―――――このまま、ずっと目覚めなければいい。そしたらもう魔族とも戦わなくてすむし、辛い思いをしなくて済む。
「姫…」
氷のように冷たい肌をして瞳を閉ざしている姫の目尻から、すうっと涙が頬を伝い落ちていく。
フォレストは悲痛な面持ちで、零れ落ちた涙を拭い取ってやる。
そんな姫を暫く眺めていたフォレストだったが。
強い願いを込めて、その華奢な額にキスを落とした。
貴方の帰るべき所は、いつでも私の腕の中にあります。
ですから、どうか。頑張ってください。
「…どうして眠ったままでいられないんだろう」
ずっと眠って居たいのに。
(駄目ですよ、姫)
「誰だ? 私は眠り続けたいんだ」
(顔を上げて、前を向いてください)
「もう、辛い思いをするのは嫌なんだ」
(そんな事言うと、ちゅーしますよ?)
「なっ!」
そう言って、慌てて顔を上げると、速攻で額にキスが降りてきた。
しかし、眼前には誰も居なくて。
銀色の軌跡だけが感じ取れた。
だけど、お陰で大事な事を思い出した。
そうだ。私の事をちゃんと見てくれている人がいた…。
一片の羽が宙を舞っている。それはまるで、私を誘うかのように上へ、上へと昇っていく。
私は、その羽を逃さないように手を伸ばし、掴んだ。
「あ…」
すうっと伸びた華奢な指が、自分の手をしっかり掴むのを見て、フォレストは思わず声を漏らす。
姫の睫毛が微かに震え、ゆっくりと瞼が開いていく。
フォレストは幽かに目尻を潤ませながら、安堵の笑みを浮かべて言った。
「お帰りなさい、姫…」