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「茨の刻印」・16 |
朝食をとり終えて暫くすると遣いの者が姫と賢者を呼びに来た。
そして昨日と同じように、老司教の部屋へやってきたというわけである。
「おはようございます、司教」
「おはよう、司教殿」
窓際の椅子に腰掛けている老司教に二人は朝の挨拶をする。
「おはようございます。お二人とも昨日は良く眠れましたか?」
老司教の問いにフォレストが答える。
「ええ。やや午睡が長引きましたが、きちんと夜も寝ましたよ。姫も思いのほか熟睡なさっていたようです」
熟睡というところにフォレストは妙な力を込めて言った。
姫の頬がかすかに紅潮している。
何せ昨日はフォレストに膝枕をしたお陰で、心身共にかなり疲れ切ってたからな。
嫌でもぐっすり眠れた。
痺れが切れるまでの間、フォレストはずっと私の横に居て…。
用が無いのなら他所へ行っていれば良いのに、何をするでもなく隣に居て。
私は、いつ足をつっつかれるかと不安だったのに。本当に余計な気苦労を使わされた。
「お二人は、氷雪の祠へはいつ行かれますか?」
「今すぐでも構いませんが」
「解りました。では、さっそく向かうことにしましょう」
フォレストの言葉に、老司教は机の引き出しから銀色の指輪を取り出し、二人に手渡した。
「この事は公に晒すわけには行きませんから、その指輪をお持ち下さい。これでお二人の姿は街の者達から見えなくなります」
「今、指輪をはめたら、司教殿からは私達が見えないのでは?」
姫の問いに老司教は穏やかに答える。
「指輪をはめている者同士なら、お互いの姿は見えるので大丈夫です」
そういって老司教は、姫達と同じ指輪を取り出し指に通した。
すると、すうっ…と空気に溶け込む様に老司教の姿が見えなくなった。
「あ…」
本当に姿が見えなくなってしまった。
老司教に見習い、姫と賢者の二人も指輪を装着する。
すると後ろの方から声がした。
「こちらですよ」
と、老司教の声のするほうを振り返ると、既に扉の入り口に立っていた。
「便利な指輪だな…」
神殿内を歩いているのだが、目の前を通り過ぎてみても、誰も姫達三人に気付かない。
姫の言葉にフォレストがにっこり微笑んで言った。
「本当に。これならお風呂とか覗きやり放題ですね〜」
「なっ、なんて事言うんだっ」
フォレストの言葉に姫は動揺する。
ああ、誰かこの人の口をどうにかしてくれ。
こんな神聖な神殿の中で、しかも老司教の前で平気でこんな発言するなんて。
こんなのが賢者だなんて…。
暫く歩くと、昨日通った大広場に出てきた。
老司教は噴水の前まで来ると立ち止まり、左手の人差し指と中指を立て、短い呪文を唱える。
すると噴水を中心に、姫と賢者、老司教を取り囲む結界が作られていく。
「幸い、辺りに人影はありませんが念の為、音と映像を遮断する結界を張っておきます」
しかし、と姫は思う。
確かにこの噴水からは不思議な感じが伝わっては来るのだが…。
一体ここに何があるというのだ?
美しい女神像の抱える水瓶からは相変わらず水が流れ続けている。
次いで老司教は懐から雫型にカットされたアクアマリンを取り出し、再び呪文を唱える。
淡い水色の宝石は、燐光を放ちながら宙に浮き、緩やかな軌跡を残しながら、女神像の額に吸い寄せられていく。
そして、そのまま、初めからそこに在ったかのように半分ほど溶け込むように沈み込んだ。
次の瞬間、噴水の水が真っ二つに割れ、真ん中を人が通れる位の道が出現する。
不思議な事に、水は噴水から溢れ出すでもなく、壁のようにその形状を留めている。
姫は普段滅多に目にする事の無い光景に、目を瞠っている。
こんな事、物語の中だけの出来事だと思っていたのに…。
「これは…水の扉!?」
更に驚くべき事に、女神像がその姿を扉に変えたのだ。
それは、透明な水で作られた扉の形をしている。ゆらゆらと陽の光を弾いて水面が揺れている。
「その扉をくぐれば、氷雪の祠はすぐです。それでは、お気をつけていってらっしゃいませ」
老司教はそう言って頭を下げた。
姫がフォレストに目をやると、彼も頷いて言った。
「では、行きましょうか。司教、案内ありがとうございました」
「神のご加護があらんことを…」
老司教は十字を切り、二人の背中を見送った。
姫とフォレストは噴水の中に出来た道を真っ直ぐに進んで行き、水の扉の前に立つ。
扉に手をかけるとひんやりとしていた。
「本当に、水で出来てる…」
指先に伝わる紛う方なき水の感触。
「しかし、これでは扉が開けられないぞ?」
手を扉の奥に入れれば入っていく。扉の取っ手も水で出来ている為、掴む事すら出来ない。
姫は、どうしよう?とフォレストに目で訴えた。
「では、このまま進んでみましょうか」
フォレストは姫の左手を取り、そのまま扉に向い歩き始める。
「ちょっ…、フォレスト!濡れてしまうではないかっ」
姫の制止も聞かずフォレストは進もうとする。
「なんとかなります」
笑顔でそう言って、姫の手を引っ張りながらフォレストは扉に正面から入り込んでいく。
飲み込まれるようにフォレストの上半身が、扉の向うへ通り抜ける。
そして、中々こちらへ来ない姫を賢者は強引に引き寄せた。
「わっ!」
勢い良く引っ張られ、バランスを崩す姫をフォレストが抱きとめる。
「ほら、濡れなかったでしょう」
「あ、そういえば濡れてないな…」
「水の性質を持っていても、あれは界と界の狭間の扉。姫が扉に触れた時、指先が濡れてませんでしたから」
「解っていたなら教えてくれれば良いではないか」
「そんな簡単に教えたらつまんないじゃないですか」
「そういう問題ではなかろうが…」
姫は呆れたように短く息を吐いた。
その吐息は宙に白い霧となって消える。
それもそのはず。ここは既に氷雪の祠なのだから。
「しかし、寒いなここは…」
寒さの余り、姫の全身に力が入る。
洞窟のような作りで、辺りは白一色の世界である。足元には雪が五センチほど積もっており、壁も岩肌をくりぬいて作ったような感じである。岩ではなく材質は氷なのだが。
人が十人ほど並んで歩けそうな広い道が、真っ直ぐに前方へと伸びている。
明かりも点いていないというのに、洞窟内はとても明るく、白に近い淡い水色の光で満ちている。
「どうやら、あの奥の祭壇に置かれているのが、例の聖杯のようですね」
フォレストの言葉に姫は奥を見ようと目を凝らす。
ここからだと、はっきりとは確認できないが、それらしい物が光を受けてキラキラと金色の光を放っている。
「なるほど、見に行ってみよう」
数分歩くと、聖杯の置いてある祭壇のところへ着いた。
金色の杯が赤い布の上に置かれている。杯のふちの部分には蔦と花が絡み合った繊細な装飾が施され、所々に赤や青の宝石が埋め込まれている。
長い時を経ているというのに、傷はおろか、色さえも全くあせる事無くそこに在る。
そして何より、聖杯自体から伝わってくる、聖気と霊気の波動が尋常ではない。
離れていては、そこまで感じなかったが、近づいてみると側に居るだけでその波動が伝わってくる。
「凄いな…近くにいるだけで、とても神聖な気持ちになってくるみたいだ」
「そうですか?私は特に何も感じませんが」
「貴殿は感じないのか?こんなに強烈な波動を発しているのに」
フォレストは、くすりと笑って答える。
「姫は私達と違って特別ですからね。普通の人が感じ取れないものも解ってしまうのでしょう」
「そうか…」
姫は聖杯を手に取った。
「あ、姫。無闇に触らない方が…」
フォレストが言い終わらない内に、辺りの冷気が増した。
同時に洞窟内にどこからともなく吹雪が吹き荒れ、それはやがて、姫と賢者の二人の前に渦を巻く。
凄まじい強風と雪が渦の中心に集まっていく。
「なっ、一体何が起きているんだっ!?」
「解りませんが、司教が言っていた試練に関係があるのかもしれませんね」
フォレストは姫が飛ばされないように、しっかりと抱きしめながら言った。
やがて渦は何かを形作っていく。どうやら、かなり大きいもののようだ。
キシッ、と氷が弾けるような音がしてそれは姿を現した。
「なっ…」
姫は思わず賢者にしがみつく。
二人の前に現れたのは、巨大な狼であった。
体毛は雪のように白く銀色に輝き、その瞳は氷のように冷ややかな光を宿している。
それにしても大きい。この洞窟の広い幅の道をその身だけで塞いでしまえるような大きさだ。
そして、彼の周りには霜をまとった真っ白な肌のエルフの姿をした、下半身が空に溶け込んでいる女性が数人、取り巻くように浮いている。
「まさか、フェンリルに会えるとは思いませんでした」
「知っているのか?」
「姫も名前だけならご存知でしょう?氷の精霊王たる、氷雪の魔狼。常にフラウと呼ばれる雪の精霊を付き従えている…」
「これが、フェンリル…」
姫は感慨深げにフェンリルを見上げた。
「人間よ、何ゆえ聖杯を手にする?」
威厳に満ちた、低い声でフェンリルは問う。
しかし、その口先は動いていない。直接、脳に語りかけているのだ。
「ヴァル・アルザースの聖なる湖が枯れてしまったので、復活させる為に聖杯の力をお借りしたいのです」
フォレストは完結に事情を説明した。
「ふむ。確かに聖杯の力を持ってすれば、湖を元に戻すなど造作も無い事だ。そなた達の前にも数十人同じような事を言ってここまで来た者達がいた」
無論、法王が送り込んだ者達のことである。
フェンリルは続けて言う。
「だが、聖杯を受け取るに相応しい者は、一人も居なかった。我は遥か昔より、聖杯の管理を任されし者。おいそれと簡単に渡すわけにはいかぬ…」
「そうでしょうね。これだけの力を備えた神器を心許無い者に渡せば、大変なことになりますから」
なるほど、老司教の言っていた試練とは、聖杯を持つ者として適正かどうか見極める為のものだったのだ。
フェンリルは相変わらず表情を変える事無く話す。
「そなたらは、我が納得いく答えを見せてくれるだろうか?」
その言葉を合図に、雪の精霊フラウが二人に向けて吹雪を放つ。
すかさず、フォレストが結界を張り応戦する。
「姫、フラウ達を倒さないで捕縛出来ますか?」
「やってみる」
姫の体から薄紅水晶色のオーラが立ちのぼる。その額には刻印が淡く輝く。
「『茨の刻印』の持ち主だったか」
これには流石のフェンリルも少し動揺したらしく、声に感情が垣間見えた。
フォレストは続けて姫にこう言う。
「フラウは倒されればそのまま雪となって消えてしまう、儚い精霊ですから出来るだけ倒さないようにして下さい」
「解った」
姫の発した言葉と共に、フラウ達にオーラと同じ色の蔦が彼女達に絡みつく。
姫の強い魔力で生み出された蔦は、用に彼女達を行動不能に追いやり、程なく吹雪は止んだのだった。
「これでいいのか、フォレスト」
「ええ、上出来です」
姫の問いにフォレストは笑顔で答えた。
その様子を見ていたフェンリルがまた言葉を紡ぐ。
「ふむ…フラウ程度では敵の内にも入らぬか。彼女達を仕留めなかった事は評価する。では、これではどうか?」
フラウ達の姿が消え、かわりに、一瞬にして別のものが現れる。
それは全身が氷で作り上げられた女性だった。
「嘆きの精霊、アリエスタ…」
フォレストは少し驚きながらそう言った。。
それは、極寒の地に住まう者の負の感情が集まって生まれた精霊。
絶望と悲しみ。やり場の無い想い。
バラバラだったそれらの感情は、やがて一箇所にあつまり形を得た。
アリエスタに触れられた者は、心の奥深くに眠るトラウマなどを呼び起こされ、深く悲しい絶望に囚われたまま、目を覚まさなくなると言う。
「これを乗り越え、見事目を覚ます事が出来れば、聖杯を渡そう」
いつの間にか、聖杯はフェンリルの足元へ移動していた。
「ずっと手に持っていたのに、いつの間に…」
姫が、驚いているところに、冷たい何かが自分に触れた。
同様にフォレストにも触れ、嘆きの精霊アリエスタは掻き消える様に姿を消した。
「姫、これから精神的に苦しくなりますが、ご自分をしっかり持って耐えてください。どんなに辛くても私の心は貴方と共にあります」
フォレストは姫の手を握り締め、青い双眸で彼女の菫色の瞳を見つめて言った。
「フォレスト…」
言いながら、姫は自分の心が段々重くなり、意識が薄れていくのを感じた。