「茨の刻印」・12




 サンクリット大陸の遥か北の地。一年の半分以上を極寒の息吹に覆われいてる国、ヴァル・アルザースがある。
 その極寒の地も夏を迎え幾らか過ごしやすくなってきてはいたが、相変わらず一日中太陽が地に沈まぬ、白夜が続いていた。
 口にした言葉が、そのまま雪となって舞い落ちていきそうな程、空気はひんやりとしていて透明だ。澄明にして荘厳な空気は神秘的ですらある。否、明確すぎる冷気は人には厳しささえ感じさせるものだ。

 ―――――――まるで、聖なるもの以外はこの地に踏み込むなといわんばかりに。

 そう、ここヴァル・アルザースは聖地として各地に知れ渡っている。
 多くの僧侶や司祭の巡礼地として、あるいは聖地の恩恵にあやかりたい者達の集いの場となっている。
 聖地の恩恵。
 それは類稀な聖気と霊気を湛えた聖水である。下位魔族程度であれば、それだけで十分撃退できるほどの力を宿しているのである。
 その聖水の源は「聖なる湖」であった。湖というにはいささか大きすぎはしたが。いつの時代からあるのかさえ解らぬ神秘の湖は、その尋常ではない聖気を宿した水を長年湛え続けていた。

 そう、一ヶ月程前までは……。

 ある日、何の前触れもなく聖なる湖は枯れた土地になってしまったのである。それも一夜にして。

*          *          *


「徐々に、我が同胞達が活性化しつつある…。聖なる湖を無くして正解だったな」
 女性なら誰でも心を奪われそうな響きの良いテノールが、しん、と静まった部屋に響く。
 部屋に明かりはついておらず、沈む事の無い太陽の光にぼんやりと照らされている。月の役割さえ太陽に取って代わられたように。
「しかし良く、あれだけの聖なる力を宿した湖を枯れさせたものだな。どうやったのだ?」
 男は窓の外を眺めながら楽しそうに言った。こちらを向いていないので、いまいち表情が解らないが、僅かに見える輪郭から美しい姿をしていることは想像に難くない。
「ふふ、簡単なこと。時を逆行させた」
 妖艶な女性の声がそう答える。その形の良い熟れた唇は歪んだ笑みを浮かべていた。
「手始めにこの地を混沌に変えてみせようぞ。聖地が荒れたとなれば人間どもも少なからず恐怖に陥ろう。必死になって逃げ惑うあの姿の滑稽さと言ったら無いのう」
 女性の淡い水色の瞳に残酷な光がゆらめく。次いでくすくすと笑う。
 その邪悪な笑い声は部屋の中をこだまするようにずっと響いていたのだった。

 一方その頃、ヴァル・アルザースの王は内密に法王の元へ訪れていた。
「…このままでは、聖なる湖だけでなく…この国も枯れてしまうやもしれぬ。この聖地の聖職者達が原因を探ろうとも解らず仕舞い。最近では魔族を見かけたという話も耳にしておる。私が王として出来る事はもう全てやり尽くした」
 査察団、騎士団、僧侶団…派遣した団は全て何の成果も得られず。それにつれて民衆の不安も高まってきている。無理も無い。聖地と崇められる由縁である聖なる湖が枯渇したのだから。
 王はもう、お手上げだという風に重く苦いため息を吐いた。額に刻まれた皺が深みを増す。王座に就いてから三十五年善政を執り行ってきた王の、人生最大の難関であった。
「はっきりと魔族の仕業だと言う確証も取れないのでは、螺旋宮に依頼するわけにも行かぬ」
 誰しも魔族の仕業であろうという考えに行き着く。そしてそれはきっと正しいのであろう。だが、聖なる湖が枯渇しただけで、魔族に襲撃を受けた者はこの一ヶ月出ていない。
「陛下…一筋の光明となるやは解りませぬが、私の知り合いに相談を持ちかけてみましょう。おそらく彼なら、何か解決の糸口を見出してくれるのではないかと思うのです」
 法王は落ち着いた声で言った。
「ほう、その者、名を何と申す」
「フォレスト・ムーンバルト…イルアーナの賢者でございます」
「賢者か…うむ。では早急に使いの者を出すが良い。頼んだぞシュバイツ」
 王は希望を託し、法王であり旧知の友の名を口にした。

*          *          *


「うぅ……」
 姫は苦悩に形の良い眉を歪ませていた。その正面には白い丸テーブルを挟んでフォレストが座っている。
「姫、そろそろ諦めて自室に戻られてはいかがですか?夜も更けてきたことですし」
 フォレストは穏やかに言った。机上にはチェス盤が置かれていた。
「嫌だ! 貴殿に一勝するまで戻らぬ」
 昼からずっと、フォレストと二人でチェスをしていた姫だったが、悔しい事に一度も勝てていないのである。
「…また貴殿に戻ってるし…」
 フォレストは小さな声で呟いた。
「ん?何か言ったか?」
「いいえ、姫は相変わらず頑固だなぁと」
「貴殿が強すぎるのだ…よし」
 姫は駒を最良の手だと自分が思った場所に置いた。間髪いれずにフォレストが手を動かす。
「はい、これでチェックメイトです」
「えっ?あっ! …また私の負けか…」
 ううむ。悔しいぞ、かなり。ちっとも思考している様子もないし。
 私が十悩んでいる間に一も悩んでないからな。きっと頭の作りが違うんだろうなぁ…。
 自分とて、けしてチェスは弱い方ではないというのに。
「そんなに見つめられたら照れるじゃないですか」
 フォレストはちっとも照れた様子でもなく微笑んでいる。
「誰も見つめてなどおらぬ」
 どうやら無意識に目の前の賢者を見ていたらしい。うっ…何だか頬が熱くなってくる。
 一体なんなのだ、これは。私の意志を無視してっ…。違う。こんなのは私じゃないっ。
 姫はいたたまれなくなって、無表情のまま、それでも頬をほんのり薔薇色に染めて視線をチェス盤へ落とした。
 フォレストはふいに右手を姫の左頬に伸ばす。姫は思わず、視界に飛び込んできたフォレストの手を見て体をびくりと硬直させた。
「…っ」
 一瞬悲鳴が出かけた。別にフォレストに触れられるのが嫌だというからではなく。
 その細長い形の良い手を目にしたとたん、鼓動が高鳴って…。
「じっとして…」
 耳に心地よいフォレストの声。
 言われなくても、じっとしている。本当に私はどうしてしまったのだろう。
 フォレストの仕草が、言葉が私を動けなくする。
 それなのに鼓動だけはいつもの倍以上に高鳴って、頭の中にがんがん響いてくる。私自身が心臓にでもなったかのように。
 ちょっと、息苦しい。
「はい、取れた」
 左頬が少し涼しくなった。
「目じりのとこに抜けかかった睫毛が引っ付いてました」
「は?」
 賢者のひと言に思わず間抜けな声を上げてしまう姫。
「そんな顔面真っ赤にして何を考えていたんです?」
「わっ、私は別に何も…っ」
「『やましい事など考えていない』ですか」
 フォレストはにやり、と意地の悪い笑みを浮かべて姫を見つめる。
「…っ。私をそんないやらしい顔で見るなっ! 莫迦っ!」
「ああ、これは失敬。私の頭の中はそういうことで溢れておりますので」
 フォレストは相変わらず楽しそうに笑っている。
「もう知らぬ!」
 姫はそっぽを向いてしまった。
 誰か嘘だと言ってくれ。こんなのが賢者だなんて。こんな事さえ言わなければ美青年で通るというのに。
「そういうわけで、私も男なんです。このまま姫がここに居座るのでしたら、襲ってしまうかもしれませんねぇ」
「なっ…!」
 その時。
 やや、乱暴に扉を叩く音がした。
「おや?こんな夜更けにどなたでしょう」
 フォレストは扉へ向かう。扉を開けるとそこには異国からの使者が息も荒く立っていたのだった。
 一目で僧侶と解る出で立ちをしていた。
「これは珍しいですね、聖地の方がいらっしゃるとは」
「このような夜更けに大変失礼致します。法王様の使いでやってまいりました。フォレスト・ムーンバルト様でいらっしゃいますか?」
「ええ。シュバイツ様がどうかなさったのですか?」
「詳しくはこちらを」
 そう言って使者は一通の手紙を賢者に手渡す。
「確かにお渡しいたしましたよ。それでは!」
 言うと使者は踵を返し早急に立ち去ろうとした。が、賢者がそれを引きとめた。
「貴方も長旅でお疲れでしょう。一晩休んでからお戻りなさい。今侍女に部屋を用意させます」
フォレストは運良く通りかかった侍女に軽く説明をし、もてなす様にとりなした。
「ですが、賢者様…」
 聖地の使者は動揺する。そんな彼にフォレストは苦笑して言った。
「私の顔も立ててください。貴方を疲れさせたままお返ししたら私はシュバイツ様に合わせる顔がありません」
 そんな事はもちろん建前で、賢者は純粋に使者の身を案じているのだ。恐らく、昼も夜も無く陸路用の騎獣を操ってここまで来たのであろう。
 彼には明らかに体力の消耗がみられた。
「…謹んでお受けいたします。貴方ならきっと聖地を救っていただけるでしょう」
 その時初めて使者に笑顔が見えた。そして侍女の案内で別室へと向かっていった。
 フォレストは再び姫の元へ戻り、椅子に腰を下ろす。次いで先ほど使者から受け取った手紙を開封する。
「フォレスト、それは何だ?」
「ご安心を。ラヴレターではありません」
 姫の問いにフォレストはにっこりと微笑んだ。
「なっ! わ、私はそういうつもりで聞いたのではないっ」
「解ってます」
「むぅ…」
 フォレストが手紙を読み始めたので、姫は邪魔をしないように黙っている事にした。
 深夜の静寂の中に、ときおり紙をめくる音がぱらりとするだけで。
 姫は段々とそわそわしてきた。フォレストと二人きりで、しかもずっと無言で。何故だか妙に落ち着かないのである。
 姫は眼前の賢者をちらりと盗み見る。青い瞳は手紙に注がれている為伏し目がちで、長い睫毛が影を落としている。
 ふいにフォレストが顔を上げたので、慌てて視線をそらす。
「どうやら、聖地がとんでもない事になっているようです」
 フォレストは短いため息をつく。両肘を机に乗せ、祈りを捧げるような形で胸の前で両手を組む。
「とんでもないって?」
「姫は何故聖地が聖地たるか、ご存知ですか?」
「聖なる湖があるからだろう?」
「ええ。その湖の尋常でない聖気によって、ヴァル・アルザース全体が浄化されています」
 賢者は一呼吸置いて静かに問う。
「…では、その湖が枯れてしまったとしたら、どうでしょう?」
「聖水が採れなくなって、土地が荒れていく…って、まさか…・・」
「ええ…」
 フォレストはただ頷いた。
「そういうわけでして。私は暫く留守に致します」
 涼しい顔で言う賢者に姫は少し寂しさを覚えた。置いていかれる気がして。
 机の下で握り締めていた手にぐっと力が入った。
「私も行く! 魔族が絡んでいるのだろう?」
「貴方ならそう言って下さると思ってましたよ」
 いつも通りの笑顔で言う賢者に姫は何だかほっとした。
「ですが、今回ばかりは気が進みません」
「どうして…」
 予想外の言葉に姫は戸惑う。
「聖地の結界をものともせず、一夜にして広大な聖なる湖を枯れた土地にしてしまう程の、圧倒的な力を持った存在…おそらく上位魔族が関わっているかと」
 賢者からいつもの笑みが消えていた。
「私では足手まといだから来るなということか!?」
 思わず口調が激しくなる。
「只でさえ魔狩人として、危険に身を置いているというのに、これ以上姫に危険な事に触れて欲しくないのです。上位魔族ともなれば、その力は今までの比ではありません」
「それを言うなら、貴殿とて危険ではないか! 私は魔力だけは何よりも秀でているのだろう?私は役に立つのか、立たないのか正直に申してみよ!」
 話している内に段々と怒りがこみ上げてきた。
 フォレストは姫の問いに苦い表情で答える。
「貴方は…とても役に立ちます」
「では決まりだな。準備をしてくる」
 そう言って姫はすっと立ち上がり、扉へ向かう。それを開けようとしたら、背後から抱きしめられた。 
「フォレスト!?」
「行って見ないと解らないですが、もし、最悪な事態だった場合…」
 フォレストの腕に力がこもる。
「私を見殺しにしてでも生き延びると約束してください」
「なっ…そんな事出来るわけ…」
 姫が言葉を言い終わる前に賢者は言葉を紡ぐ。
「約束できないのなら、今ここで気絶させます」
「………」
 ―――――私が魔狩人になれたのは誰のお陰だ?
 ―――――いつも私に優しく微笑みかけてくれたのは?
 ―――――いつも私を守ってくれたのは?
 その本人を犠牲にしろというのか?
 …そして、姫は散々悩んだ挙句返事を返した。
 是、と。
 ふっと、フォレストの力が抜けその腕から解放される。
 姫は振り向かずに言う。
「私からも一つ約束させよ。勝手に死んだら許さないからな!」
 フォレストの瞳が一瞬驚愕に見開かれ、また元に戻る。
「貴殿は私の大事な守り手なのだからっ」
 言い残し、姫は逃げ出すようにその場から立ち去った。
 光の雫をおとして…。



TO BE CONTINUED...
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